「NECパーソナルコンピューター PC-8001誕生40周年記念記者会見」に出席に寄せて

9月に入り、残暑が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
さる2019年8月5日、ゲーム保存協会は光栄にも「NECパーソナルコンピューターPC-8001誕生40周年記念記者会見」にご招待いただきました。日本のパソコン文化の歴史の歩みと、それに関わる多くの人達に温かく祝福された素敵な会見でしたので、皆さまにレポートいたします。
80年代からのマイコンファンとして、少しでも会場の雰囲気とワクワクした気持ちを共有できますと嬉しく思います。

展示の様子

会場では、NEC歴代のパソコンが、当時の流行・文化の年表とともに展示されていました。
TK-80から始まり、PC-8001、PC-6001、PC-9801などのマイコンから近年のパソコンまでがズラリと並ぶ姿は圧巻でした。(PC-88がなかったのが少し寂しかったです。笑)

TK-80/PC-8001の前身であるトレーニングキット。後述の西氏スピーチで語られるが、左上から4番目に空のソケットが見える

 

PC-6001

PC-6001/熱狂的なファンも多い、愛称はパピコン

PC-100

PC-100/アスキー創業者・西氏スピーチで語られたWindows1.0世界1号機、世界初マウス・インターフェース

そして今回のイベントでお披露目になった記念モデル「LAVIE Pro Mobile」。

40th-model

PC-8001をオマージュしたカラーリングのデザインで、機体にはキラリと光る旧NECのロゴが入っているシックなデザイン。本体もかなり軽く、男女年代問わず持っていて違和感がありません。「欲しい」と思える、シンプルイズベストという言葉がぴったりの非常に美しいパソコンでした。

そして皆さんお待ちかねのPasocomMini PC-8001です。

pasocomMini

操作方法がわからなかったので、ハル研のスタッフの方にサポートしてもらいながら、いくつかゲームを遊ばせていただきました。
せっかくですので、少し「平安京エイリアン」を遊んでみました。実は初プレイでしたが、なかなか奥が深く、何度もプレイしてしまいました…!

 

会見の流れ

時間になり会見が始まりました。会見の流れは以下の通りでした。

・デビット・ベネット社長のご挨拶
・元日本電気支配人の渡辺和也(わたなべかずや)氏のスピーチ
・元日本電気PC-8001開発者の後藤富雄(ごとうとみお)氏のスピーチ
・アスキー創業者 西和彦(にしかずひこ)氏のスピーチ
・新製品プレゼンテーション/炎神(えんじん) 総合プロデューサー森部浩至(もりべひろし)氏
・エンディング(デビット社長の挨拶)

 

―デビット・ベネット社長のご挨拶

デビット社長は日本語がとても堪能で、NEC PCのヒストリーから、今回のPC-8001 40周年イベントの主旨、40周年記念 限定モデル「LAVIE Pro Mobile」の発表がありました。デビット社長もPC-8001と同じ1979年生まれで、運命的なものを感じました。デビット社長が限定モデルのパソコンを立ち上げた際、旧ロゴ「NEC」が表示されて会場では歓声が上がっていました。ちょっとしたサプライズでした!
PasocomMini PC-8001は、購入者キャンペーンでプレゼント。こちらはPC-8001をエミュレーションし、しかも当時マイクロソフト社が開発したN-BASICを搭載するとのこと。これは凄い話です。

 

―元日本電気支配人の渡辺和也氏のスピーチ

PC-8001誕生までのお話を拝聴しました。
当時、市場の強い要望に応え、TK-80上位機種を求める声が高まったことがPC-8001誕生の背景になったとのこと。NECは技術情報を積極的に開示し、結果サードパーティと共存共栄したことが成功の秘訣だったようです。TK-80の解説本「マイコン入門」は、松本清張の「砂の器」と並んでベストセラーとなり、当時のパソコンの熱いムーブメントを感じますね。

PC-8001発売にあたり、基本ソフトの必須条件としていたのは2点。

1 . 出来るだけ多くの人に使ってもらうため、将来デファクト・スタンダードに近づけるもの(技術優位よりユーザーフレンドリー)
2 . 使用実績があり、バグ取りがかなり進んだもの(前機種では、かなりバグが多く、非常に苦労した)

結果、マイクロソフトのN-BASICを選択しましたが、当時のマイクロソフトは当時立ち上がったばかりで、従業員規模は12、3人と小さかったため、「取引するのはマズイのでは?」という声もあった苦労を語られました。PC-8001発売後もオープンポリシーを継続し、サードパーティーと共存することがNECのトップシェアをキープする要因となった、とのことでした。
40年も前に積極的に技術開示をする姿勢は、非常に先進的に感じられ、パソコン文化を盛り上がげていったのも自然だなと頷けました。

 

―元日本電気PC-8001開発者の後藤富雄氏のスピーチ

担当技術者として、どう関わったかのお話をいただきました。
後藤さんは、学生時代まではコンピューターが一切なく、NEC入社後にPDP-8(DECが製造したミニコンピューター)をしゃぶりつくすように研究したのがきっかけ。
マイクロウェーブのNECということで憧れて入社したものの、実際はマイクロエレクトロニクス、半導体事業部へ配属。しかしそこには、素晴らしい先輩・仲間、若い技術者を大切にされた素晴らしい環境があったとのことでした。
九州日本電気へ出向すると、LSIテスターを行って、コントローラはしゃぶりつくしたPDP-8を使用。コンピューターのハード・ソフトを独習していったのです。

マイクロプロセッサが誕生すると、マイクロプロセッサを使う人に教育をしなければいけないということで作ったのがTK-80でした。
そして、PC-8001へ繋がったのは、ホビイストが集まる秋葉原のBit-Inn。その中で聞いたところ、遊びの訴求ではなく、実用になるような、しっかりとしたものを作ってほしいとの要望がありました。そのためには、超強力なBASICが必要で、西さん、渡辺さんとの出会いがあり、ビル・ゲイツさんの所まで飛んでいき、やりましょうという話になった。フロッピーやディスプレイなど、色んなハードを動かすことを実現できるのはマイクロソフトのBASICだけだったのでは、としみじみ語っておられました。

最後に、今までのパソコンは個人の知的能力を拡大する道具だったが、これからは、ネットワークで繋がったPC・モバイルは、地球規模での人類の知的能力、コミュニケーションを拡大し、人類が抱える問題を解決できる可能性がある、との話で締めくくりました。
後藤さんを取り巻く素晴らしい人々と、未来の光を感じさせるような素敵なスピーチとなりました。

 

―アスキー創業者 西和彦氏のスピーチ

西さんからはNECを外から見たお話をされていました。
独特の語り口調と憎めないキャラクターで、ビル・ゲイツ氏との出会いや当時のパソコン変遷を面白く語られ、会場を沸かせます。

原点はアマチュア無線で、西さんはTK-80を見て「へぇー!」と非常に感動。よく見ると、TK-80は空のソケットがあり、「ここにBASICを乗せよう!」と思ったのが全ての始まり、だったとのことでした。
その後は、アスキーでも初期パソコンが出るたびに、酷評レビュー。渡辺和也さんがオープンマインドな方で、「悪口を書いてもってこい」とのことで、素晴らしいと思ったそうです。

ついには僕たちで理想のパソコンを作ろう!ということで、ビル・ゲイツ氏と話をして「こういうパソコンを作ろう、NECへ提案に行こう」と言って出来たのがPC-8001だった、とのことでした。その後も次々にNECへ提案を持って行って、マイクロソフトのコラボレーションがありがたかった、とのこと。
印象的だったのは PC100の提案で、これはWindowsパソコンの世界1号機。Windows1.0 が動き、マウスも動いて、凄かった。NECはPC-9801で一本化され、政治によってつぶされたとのことでした。マイクロソフトでは新規事業を担当。その後も、WindowsとCD-ROM、半導体、デジタル オーディオ・ビデオ、タッチスクリーンの携帯など多くの事業を手掛けられたお話をしました。そして40年前から一緒にタッグを組んだ後藤さんと一緒に、これからはIoTということで活動中です。

西さんも後藤さんも40年経っても変わらず、現在進行形で新しい技術に対して、意欲的に取り組んでいらっしゃるので、まさに生涯現役といった印象です。
決して昔の語り草ではなく、過去、現在、そして未来まで。まるで一緒にタイムマシンに乗っているような心持ちで、身が引き締まる思いでした。

 

―新製品プレゼンテーション/炎神 総合プロデューサー森部浩至氏

森部さんからは新製品のプレゼン。前段の背景として、パソコンは、ツールからパートナーへ進化していき、今後は「Pro(ワークスタイル改革)/Education(教育改革)/Home(ライフスタイル改革)」の3軸をフォーカスしていくというお話がありました。
そして、最後にサプライズ。なんと、どこかで見たようなロゴが映し出されました!

当協会のルドン理事長も大好きな、あのゲームハードを彷彿とさせますね(笑)。
今後はNECとしてもゲーミングPCを展開していくとのことで、かなりインパクトのある発表でした。

 

なお、各登壇者スピーチの合間には、関係各社からのビデオメッセージが流れ、マイクロソフト、インテルから、なんとマウスコンピューター、富士通など、競合会社の方も含めて、会場の場を和ませるメッセージが寄せられました。

印象的だったのは、富士通からのコメントです。NECを「お兄さん」、富士通を「弟」と呼び、終始お兄さんの後を追いかけ、伴走し、切磋琢磨してパソコン業界を築いた軌跡をお話いただき、会場では、この真剣な「お兄さん」語りの絶妙な可笑しさに、会場は笑いに包まれました。

 

そして最後は、デビット社長の挨拶。
「炎神」について。よく「NECはゲーミングPCは作らないのか」と聞かれるが、実は40年前にゲーミングPCを作っていた、それがPC-8001。だからゲーミングPCの名前は炎神・フェニックスとし、ゲーマーを満足させるものにするとのコメントがありました。
今回の40周年は、NECだけではなく日本のPC業界、皆でお祝いしたかったので、このように各社からのメッセージを集めた、日本のメーカーが本気になれば、世界が動く製品になるはず。それをやりますので、期待してくださいと、力強いメッセージで締めくくられました。

終了後は、出席者の懇親会が開催されました。
電波新聞社の大橋編集長が乾杯の音頭を取り、ベーマガ復活の狼煙を上げた「電子工作マガジン」が非常に好調で、ファンの注目を集めていることをPR。多くの関係各社・人達から支えられ、今日を迎えられたという暖かい気持ちのまま、和やかな雰囲気で会場を後にしました。

 

会見に出席して

貴重な会見に出席させていただき、関係者の皆さまには改めて深くお礼申し上げます。
パソコンの歴史書を紐解く瞬間に立ち会えた心持ちです。

 

40年以上も前から綿々と情熱を注ぐ作り手、メーカー、そしてパソコンに魅了されて盛り上げていったユーザーの皆さん。今のIT業界のリーダーシップを取っている方々からのビデオメッセージを見ると、「あぁこの方もNECのパソコンで育ってきたんだなぁ…」と共感し、じんわり嬉しくも暖かい気持ちがこみ上げてきました。
今日の日本パソコン文化を牽引した立役者は、NEC抜きでは語ることはできません。

 

TK-80を経て、改めてフォーカスされた、NEC初の本格的なパソコン「PC-8001」。
記事を読んでいる方の中には、「何故PasocomMiniは、PC-8001なの?」と思った方もいらっしゃるかと思います。ですが、PC-8001・40周年記念会見が、テレビのニュースでも報道され、話題になったことは、日本のパソコン文化の原点に立ち返り、非常に重要で、意味のあることのように感じます。
また当時のマイクロソフトと協業して作られたN-BASICが搭載されたPasocomMiniで、現代の技術環境で動かせるというのは、改めてとても感動的な気持ちになりました。

 

ゲーム保存協会は、次世代へ日本のパソコン、ゲーム文化を伝えるためのPasocomMiniに期待を寄せており、今回も資料提供など協力をさせていただきました。
これもひとえにサポーターの皆さんのご支援があって、本プロジェクトへの協力・支援に繋がったと実感しております。

 

支援してくださる方々のパワーが集まって大きくなり、確実に成果となって実を結んでいます。自分も参加したい!と思った方は、サポーターとしてご支援いただけますと幸いです。メンバー一同の励みとなり、より一層の成果となるよう活動に取り組んでまいります。

★サポーター参加はこちらから

今回の記者会見の出席者には、PasocomMini PC-8001本体がレビュー用試作機として贈呈されました。今後もゲーム文化の保存の一助となるPasocomMiniを応援すべく、保存協会メンバーでの使用レビューを記事にしたいと思いますので、どうぞ楽しみにしていてくださいね。

 


【関連サイト】
・NECダイレクト 40周年記念 限定プレミアムモデル
・ハル研究所 PasocomMini公式サイト

Kotaku

日本のゲームの救出

元の記事はKOTAKUから(投稿日:2017年10月12日)https://kotaku.com/saving-japans-games-1819339226(英語)
 


東京のNPO法人が劣化消滅の危機にある初期日本ゲームの保存に取り組む。
 
9月、日曜の朝。この日は台風18号の影響で西日本は豪雨に見舞われていたが、ちょうど逆の西日本側、東京都等々力駅周辺では小雨が降る程度に勢力は弱まっていた。渋谷の有名なスクランブル交差点から電車でおよそ20分、等々力はローカル線各駅停車が一本だけ通る穏やかな住宅街だ。9時半に電車を降り、安物の小さな傘を出す。グーグルマップを見ながら、ファーストフード店やコンビニが集まる改札前の小さな商店街を通りすぎた。小さな店々に代わり木々が見えてくる。東京都心部では見ることのできない情景だ。曲がりくねった道、ガソリンスタンド、青々と葉の茂った庭にゴルフの打ちっぱなし練習場。
 
道に迷わないよう握りしめるスマホのスクリーンに台風の細かな雨粒が弾けた。ここは観光客用の町ではない。特別な理由がなければ決して立ち寄ることのない町、それが等々力だ。だが私には今回、その特別な理由があった。この道の先に、日本の初期コンピューターゲーム13万本以上を集めたコレクションがある。こここそが、消えつつある日本ゲームの歴史資料を保存する草の根運動発祥地、グラウンド・ゼロなのだ。
 
駅から1キロほどの静かな通りに、門と生垣に囲まれ4棟が連なるテラスハウスがある。この中の一棟が、2011年に日本ゲームの保存研究と資料収集を目的として設立されたNPO法人ゲーム保存協会の本部だ。中心メンバーは殆どが日本人だが、団体を率いている理事長はフランス人のルドン・ジョゼフ。彼は本部と同じ建物内に住んでいる。彼が、コンビニ傘を脇に置いて靴を脱ぐ私を迎え入れてくれた。現在41歳のルドンは、目を引く出で立ちをしている。見事な仕立服を着て、頭髪から眉毛まで綺麗に剃り、細いフレームがついた丸眼鏡はまさにマッドサイエンティストといった風貌。彼は「時」を相手に、負けがわかりきった戦いに挑むある種の絶望を込め、静かに語りだした。
「日本では、ものを捨ててしまうんです」と彼は語る。
 
「これは文化的な違いなんですが、例えば今日は台風でしょう?ちょっと前には地震もありましたね。気が付きませんでしたか?とても小さい地震ですが、とにかくこの国は海の上の岩みたいなものですから、自然災害だらけなんです。考え方や生き方、物の継承の仕方など、ここでは全てが異なります。この国で家を建てても、30年後にはいったんつぶして建て直さなくちゃならない。」
これは古いコンピューターやフロッピーの保存にとって芳しくない話だ。
「80年代のバブルの頃、人々は新しいコンピューターやテレビを毎年買い替えていました。ただここにはアメリカのようにそうしたものをすべて取っておくのに十分な部屋がないんです。」
ルドンは一般的な状況を説明する。結果、「ほとんどが捨てられてしまう」そうだ。さらにコンピューターが直面する状況はファミコンをはじめとしたコンソールのそれとは異なるという。ファミコンなら、押入れから見つけ出しても、プラグをつないだら、だいたいは今でも動くはずだ。だがこれがPC-8801とフロッピーの山だったなら、電源を入れることができず、ごみ箱行きになるだろう。「修理には知識が必要なんです」と彼はいう。「動かなかったら、ほとんどの人がとっておかず捨ててしまいます。」
 
例えば、80年代に出回っていたPCソフトは、99パーセント壊れて捨てられたとルドンは言う。ゲーム保存協会は、この残りの1パーセントを経年劣化から救うために戦っている。
 


アメリカなら、Apple IIが同じ状況だ。イギリスならZX Spectrum。そして日本では、PC-88。
世界がIBM PC互換機とWindowsに席巻される前は、各地域で、完全に互換性のない個別のパーソナル・コンピューターが使われていた。80年代の日本には、シャープX1やFM-7といった様々なフォーマットが林立していたが、中でも主導をとっていたのはNECのPC-88だ。スクエア、エニックス、光栄、日本ファルコムといった数々の日本のゲーム会社が、このPC-88用のゲームから活動を開始している。小島秀夫のスナッチャーも最初はPC-88用ゲームだった。PC-88には任天堂スーパーマリオブラザーズの公式ライセンス版まで出ている。
 
東京のゲーム保存協会本部はこうした日本のPC全機種のゲームを保有しているのだが、中でも「日本を代表するPC」としてルドン・ジョゼフが注目するのがPC-88シリーズだ。ゲーム保存協会は、公式に発売されたPC-88用ゲームの60~70%をすでに保有しているというが、現在、見つかっていない残りのゲームを探すのは非常に困難だという。ルドンは「チャンスがあって、ものすごく頑張っても、全体の80%がマックスでしょう。もしPC-88のゲームのうち8割をのこせたら、それは映画フィルムの保存率よりたくさん残せているという事ですから」と続け、「すごく大きな数字なんです」という。たとえそうだとしても、1980年代に作られたゲームのうち20%が永遠に失われるというのは、なんともやるせない。
 

書斎

ルドン・ジョゼフと本部にある古いPCゲーム雑誌の図書室

マンションの玄関口を通り抜けると、日本のPCゲームが詰まった収納箱が何列にも並び積みあがる姿に圧倒される。箱を開ければ沢山のゲームが目に飛び込む。日本語版ウルティマVI、ピンボールゲームのムーン・ボール、銀河英雄伝説III。これはあくまで一時的な保管の状態だとルドンは説明する。もし1年前に私が来ていたら、これと同じような収納箱が300箱以上、マンションの部屋部屋に所狭しと並ぶ様子を目にしただろうという。ここにある箱の列は、それと比べればごく少数。家に溢れる300箱をこれから向かう上階に整理してアーカイブしたあとの残りなのだ。
 
ゲーム保存協会本部には13万本のゲームが保管されているが、ダブりを省いた純粋なタイトル数では8000本になる。一本のゲームを複数枚持っていることはいろいろな意味で重要で、特に、見た目では全く同じディスクでも中身のソフトウェアが別のバージョンであることがあるのだとルドンはいう。多くのダブり資料はヤフー・オークションなどでまとめ売りされているゲームを購入した際についてきたもので、よくあるのは、イースや英雄伝説など今でも人気のRPGシリーズなどの当時のヒット作だ。
 
さて、皆さんが「世界一大きなレトロゲーム・ショップ」のような、色とりどりに輝くゲーム・パッケージを綺麗に収める陳列棚が何列にも並ぶ様を想像してこの上階に上がったなら、きっとがっかりすることになるだろう。ここ2階に置かれているのは、数字が付いた同じ形の箱で、これが何列も何列も続く。
「あらゆるゲームの資料は種類ごとに分けられ、別々の部屋に保管されています」とルドンは説明する。フロッピーディスク、カセットテープ、そしてその他のゲームを記録した磁気媒体は、非常に劣化しやすくカビに弱い。そのためこれら資料は種類ごとに別々に分けて特注の中性紙保管容器に入れ、湿度と温度の注意深いモニタリングによって管理された部屋に収められる。
 

保存容器

ゲーム保存協会のフロッピーディスク保管庫

もともとゲームが入っていたパッケージは、別の大きな箱の中に入れ隣の部屋に保管されており、マニュアルは特注サイズの中性紙封筒に入れ廊下部分の金属ラックに収められている。もしゲームがもともとプラスチックケースと紙の背表紙の形で販売されたものだったら、中に入っている背表紙は抜き取られ(そのままの状態では湿気で紙がプラスチックに張り付き資料破損の原因になる)、アート・ポートフォリオ用の大きなファイルに入れて保管される。保存協会がゲームを保管する際は、まずデータベースに詳細を入力してから、分別されたパーツそれぞれをQRコードでタグ付けする。ルドンがゲームを取り出したければ(例えば写真撮影のため)、データベースのタグを辿って各資料がどこにあるか簡単に見つけることができる。
 
保管庫は、どれも保存協会が調達しうるもののなかで最高クオリティのものを使っている。カセットテープは酸化物を含まないアメリカ製特殊プラスチックケースで保管する。ルドンはこれを数千個単位で輸入した。「カセットテープやレコードの保存技術はアメリカが最も進んでいます」とルドンは言う。中性紙でできた特殊な封筒は日本製で、紙のことであれば日本が世界一だという。保管用の箱はどれも株式会社資料保存器材が作っている。この会社は日本の図書館や美術館に資料保存のさまざまな手段を提供しており、ゲーム資料を扱ったことはなかったが、保存協会の取り組みに関心を寄せパートナーとなった。彼らにとっては、今後日本の人々がゲームの歴史をアーカイブするために動き出せば大きなビジネスチャンスとなるはずだ。乗り出せば、だが。
 
ちょうどこの前日、私はゲーマーの聖地秋葉原で、ルドンが喜ぶに違いないちょっとした買い物をしたところだった。実は私は元祖ファイナル・ファンタジーを先取りするスクエアの初期コンピューターゲームのコレクションをしており、ちょうど前日、デス・トラップというPC-8801用にでた最初期のアドベンチャーゲームを見つけたところだった。ルドンに携帯で写真を見せると、「あぁ、これですか。これは第2版ですね」というではないか。なんてこった!最初の最初ではない後続の版を引き当ててしまったなんて!
「初期版のデス・トラップは見つけるのがとても難しいんです」と彼は言う。彼も15年間探して、出てきた初期版は2つだけだという。
 

アーカイブ室

保存協会のアーカイブからゲームを取り出すルドン

そう聞いて、自分のものが第2版であっても随分気が楽になった。続けて、保存協会本部1階に全巻揃えられている1980年代のPCゲーム雑誌をめくりだしてから、さらに安堵する情報を得ることができた。デス・トラップの第2版のパッケージ写真は1984年の雑誌に載っており、つまりこの第2版が初版が出たのと同年に発売されていたことが分かったのだ。つまり後年の再販ではないというわけだ。こうした周辺情報というのは、ゲームそのものよりも残すのが難しい。
 
「エミュレーターでしか遊んだことがないなら、デス・トラップについて語ることはできません。それは史実とは異なるんです」とルドンは言う。「今、雑誌を見ていますが、これはゲームの大事な要素の一つです。私たちは一つのゲームタイトルに関連するすべてのものを集めようとしています。人々はこうした物にアクセスすることで、それぞれの芸術作品を新しい視点から語ることができるようになります。」
「きちんと保存されて、一般に公開された暁には、ライターや研究者、歴史家がこういった小さな宝物を見つけて、それについて語り、新たな歴史物語を書いていってほしいと願っています。」
ゲームの歴史といえば、スペース・インベーダーが普及し、パックマンやマリオが登場して一般に広まるあたりから語られるが、実はこれは商業的に成功した商品の歴史であって、本当に影響力のあった作品の歴史ではないかもしれないのだ。「アートの歴史を語るとき、それが何万枚売れたかといったことは考えないでしょう?ネット上のいたるところに掲載され私が毎日目にするビデオゲームの歴史は、私の知っている“歴史”とは違うんです。さらにこれは当時の正しい歴史とも微妙に異なります。」
 


1992年、日本にはじめて来た時、ルドン・ジョゼフは16歳だった。父親に経済的援助を受けての一人旅だ。目的はいたってシンプル、PCエンジンのゲームソフト購入だった。
 
当時の欧米のゲームマニアのご多分に漏れず、ルドンはPC-88のことなど聞いたこともなかったが、彼はアメリカでTurboGrafx-16として発売されヨーロッパでは未発売だった日本のゲーム機PCエンジンに取りつかれていた。
「当時のフランスでは、中古ですらPCエンジンのソフトはものすごく高額だったんです。」
彼は、少しお金をためれば、PCエンジンがまだまだ人気で市場に出回っている日本に行って、秋葉原でもっと中古のゲームを買えるだろうと考えた。計算では、貯金したお金で10本から15本のPCエンジンのゲームが買えそうだった。
「でも現地に行ってみたら、私が探していたゲームはたった100円か200円で売られてたんです。」
大々的な計画変更だ。最終的に、彼は150本のゲームをスーツケースに詰めてフランスに帰国した。
 
これは日本に住む必要がある、すぐにそう決心したが簡単に実現できたわけではない。チャンスを伺いながら、すべて新品同様のコンディションで集めたゲームのコレクションを作り上げた。ルドンは若い頃、持っていたコモドール64のゲームを全て失って遊ぶことが出来なくなるという悲しい過去があった。PCエンジンでは、絶対にそんなことをさせない。
 

レトロPC

秋葉原BEEPショップのPC-8801(左)とパナソニックMSX

そんな時に、偶然の幸運に恵まれルドンは90年代後半、パリに居ながら、帰国する日本人カップルからPC-98(PC-88の上位機種)を買い受けることができた。すでに秋葉原のPCゲームショップで、自分が遊んでいるPCエンジンのゲームにはオリジナルの、真のバージョンが存在することに気が付いていた彼は、ICQという初期のインターネット・チャット・サービス上で知り合った日本人の友人からソーサリアンと、その他の初期ファルコムのRPGゲームを送ってもらい、ようやくこれらのゲームを、オリジナル・バージョンで、本物の日本のPCで、遊ぶことができたのだ。
 
がしかし、3日間遊んだところでこのPCは死んだ。
 
PC-98を起動してから72時間後に異変が起き、電源が焼け焦げた。直すことは不可能で、別の何かで置き換えることすら出来なかった。「ものすごく悲しくて、泣きました」とルドンは言う。「ここまで来るのにどんなことでもしてきたのに、まさに目の前で消え去ったんです。」
もう限界だった。
「2000年に、アパートも、猫たちも、彼女も、家族も、仕事も捨てて、最後の給料をもって日本に引っ越しました。」
 
最初は、とにかくゲームを追いかけ、日本のコンピューターゲームの世界を探り、趣味友達を作っていった。2006年、PC-88に関する本を書いたある友人が、彼の1000本に及ぶゲームコレクションを売りたいといってきた。
「彼は日本中のコンピューターショップを回って、安値でソフトを買っていました。」
その友人はそうした店の店主に大きな金額を提示しては、店に置いてあるすべてのPC-88用ゲームを丸ごと買い取って自宅に送らせていた。ルドンはその友人のコレクションを買い取ったが、まさにこれが、現在のゲーム保存協会のアーカイブのはじまりとなる。
 
コレクション買い取りと時を同じくして、ルドンは保存についても危惧しはじめる。いまやこうしたゲームたちのオーナーになったわけだが、果たして10年後はどうなっているだろう?もし何か手を打たなければ、子どものときのコモドール用ゲームと同様、なくなってしまうのではないだろうか。
 


「リマスター」という言葉は、昨今ゲーム業界でもよく使われるが、そのほとんどはこの単語の間違った用法だ。デベロッパーがプレイステーション2のゲームを引っ張り出してきて、解像度を上げ、テクスチャーを書き込み、オーケストラの生演奏でサウンドトラックを加えてプレイステーション4でリリースする。我々はこれを「リマスター」と呼んでいるが、実はこれは違う。ルドンとゲーム保存協会のメンバーらが日々行っていることこそが、語の正しい意味におけるリマスターだ。損傷し状態の酷いゲームから、その作品が作られた当時の状態を復元する緻密な作業で、新しいマスターを作る。このマスターをもとに何度でも新しくそのゲームを量産できる完璧なプリザベーション、これがリマスターだ。これさえあれば、オリジナルのフロッピーがカビて死んでも問題にならない。
 
このリマスターは、フロッピーやカセットの単純なコピーよりずっと複雑な作業である。現在では、Internet Archiveのサイトを通せば数百か、もしかすると千本以上のPC-88用ゲームがダウンロード可能で、今使っている自分のPCからエミュレーターで遊ぶことが出来る。だがこうしたソフトはコピー品であってリマスターではない。事情を知らないもののために説明するが、ゲームのソフトにはほぼ全てコピープロテクトがかかっており、先の例のように吸い出され出回っているコピー品は、ほぼ間違いなくこのプロテクトをハックし壊している。これをエミュレーターで正常に動作させるため、ほとんどがゲーム・コードを改変しているのだ。おまけにエミュレーター自体も、オリジナル機器の完璧な再現ではない。もしPC-8801の実機でそのゲームを遊びたければ、単なるコピーではだめで、元のディスクを物理的に複製しなければならない。
 

QRコード

ゲーム資料は各々QRコードで管理され、中性紙でできた特注の封筒と箱の中で別々に保管される

ディスクを物理的に読み込む機能は、コンピューターにはもともと装備されていない。フロッピーやカセットに保存されているデータというのは、単に表面に0や1が直接プリントされているわけではなく、磁束の変化でメディア内に記録されている。コンピューターについているフロッピーディスク・コントローラー(FDC)という小さなチップがこの磁気信号の変化をコンピューター側にコードとして伝えるのだが、FDCはディスク情報のすべてではなく、必要な部分だけを処理する。もしここからコピーを作れば、読み取れた部分だけが磁気信号に戻され新しいディスクに移されるので、まるでコピー機でコピーを取るような、質の低いオリジナルとは異なるものとなってしまい、リマスタリングにはならない。
 
ルドンはこの問題を解決するための研究で、ヨーロッパにあるSoftware Preservation Societyという団体を発見した。彼らも、コモドール・アミーガのゲーム保存で全く同じ問題に取り組んでいたのだ。この団体は、もともとアミーガのゲームプログラマーだった人物が、自らが作った昔のゲームを遊ぼうとして、ハッカーがコピープロテクトを壊し勝手なデモをゲームの前に追加したクラッキング版しか見つけられなかったことから立ち上げられた。「彼にとっては、自分の作品の上に落書きをされたようなものだったんです」とルドンは言う。このプログラマーは、アミーガに直接ディスクから信号を読み取らせる方法を見つけ、FDCが情報を分析する過程をスキップした。「ここから、彼は新しいマスターを作ることができました。この新しくできたマスターから、彼はオリジナルのゲームの完全な複製品を作ることができたんです。」
 
ルドンはこの団体と協力したかったが、ことはすぐには進まなかった。彼らはアミーガ以外の機種に関心がなかったのだ。その後、プロジェクトの拡大が決まり、さっそくルドンのPC-88のために動き出すが、プロジェクトに乗り出してすぐ、これがソフトウェアの更新程度では対処できない問題で、PC-88の電磁信号やその他のディスクを読むための特別なハードウェアの開発が必要だとわかった。こうした研究の成果がKryoFluxというUSBデバイスだ(誰でも購入が可能)。このデバイスはどんな磁気媒体の信号でもローレベルで読み書きができ、これを使えばオリジナルのコンピューターを持たないものでも完璧なリマスターを作成することが出来る。
 

PC展示

BEEPショップに展示される国産PCの様々なモデル

「いったんゲームをリマスターしてしまえば、実機を使って、まるでもとのフロッピーを使っているかのように、同じ動作をさせることが可能です」とルドンは言う。「今のところ私たちはエミュレーターはやっていません。保存したものは実機で動くようにしたいのです。」
ルドンはこれをクラシックカーに例えて説明する。
「クラシックカーが好きな人はエンジンを別のものに変えたいと思わないでしょう?まさに当時の人が運転していたのと同じ感覚がほしいはずです。綺麗に洗って、壊れていたらそこだけ交換して。コンピューターでも同じことができると思うんです。もしプロセッサーが壊れたとしても、十分な情報さえあればそこだけ交換する技術がきっとできます。」
 
PC-88のディスクから直に磁気信号を読み取る術が整ったとしても、これですべて解決ではない。日本のゲーム産業の独特なあり方に関わることなのだが、欧米のゲーム出版社はフロッピーのデュプリケーションにしっかりとした規格を定め、高額な専用機器を使っていた。だが日本のゲーム会社はローテクだ。
「日本ではまるで自宅でダブル・デッキを使ってカセットをダビングするようにしてゲームのデュプリケーションをしていました。完全に手作業だったんです。」
保存協会にとって問題なのは、こうした作り方ではデータを見てもゲームが製造後に改変されたかどうか見分けることができない点で、そうしたケースは頻繁にある。
 
初期のコンピューターはハードドライブがなかったので、ゲームはフロッピーから直接読み込まれ、コンピューターはそこにデータを書き込んでいた。ゲームのセーブ、ユーザーネームやハイスコア情報などは、直接ゲームのフロッピーに上書きしていた。普通ならKryoFluxで調べると、後から書き込まれたデータとオリジナルのデータは簡単に見分けることが出来る。オリジナルの電磁信号は高品質のデジタル・マスタリング・システムでしっかりと書き込まれており(出荷時の状態)、後から加えられた信号は自宅のフロッピーディスク・ドライブで書かれている(ユーザーによる上書き)から違いは瞭然だ。だが日本のゲームは、有名なゲーム会社のものでさえ、全ての情報があたかも自宅で書かれたように見え、KryoFluxではわからないのだ。ただ見ただけでは、どこがオリジナルの情報で、どこが上書きされたものか判別できない。
 
ゲームというのは単なるディスク・イメージだけではない、とルドンは繰り返す。関連資料、箱やマニュアル、マップ、カタログなどすべてがゲームの一部だ。本部1階は、壁一面、世界最大の最も充実した日本PCゲーム雑誌のコレクションが収められた巨大な本棚で埋まる資料室になっているが、ここはディスク以外のリマスタリング作業が行われる場所でもある。
 
本棚の反対側には最高水準で組まれた巨大なPCセットが置かれ、同じくらい巨大な平置き型のスキャナーが接続されている。部屋は完全な暗室にでき、光除けのシェードとキャリブレーションのついたモニターを使って完璧に取り込んだ画像の色を確認することができる。資料スキャンはすべて、横にコダックのカラー・コントロール・パッチのボードが付けられて、色調整も完璧だ。フォトショップやその他の画像修復用プログラムを使い、取り込まれた箱に緻密なデジタル修復作業を施す。印刷して組み立てれば新品の箱が作れるデジタルマスター版の出来上がりだ。
 

編集1

イースや英雄伝説を生み出した日本ファルコムが最初に出したRPGで、ゲーム保存協会の収蔵品の中でも特に歴史的重要性の高いぱのらま島。非常に数の少ないゲームで、保存状態のよくない1箱しか所蔵がない。

編集2

ルドンが画像を取り込み、元の絵の色調やディテールがきちんと読み込まれているか確認する。

編集3

続いて画像のデジタル修復を行う。すり減って消えた部分を再現していく。

編集4

このカラーチャートは当時ほとんどのゲームの箱印刷に使われていたインク会社が発行した色見本から取られている。横に添えてスキャンし発売当時の色に完璧に色合わせをすることができる。

編集5

最終的に完成したオリジナの箱のリマスター。印刷業者に送ってレプリカを作ることが可能だ。

これでも十分だが、ルドンはさらに一歩先に行く。今度は別のカラーガイドがついたボードを取り出してくる。これは1980年代当時ほとんどのゲーム・パッケージを印刷するのに業者が使っていた色見本だ、と彼は説明する。パッケージの箱の印刷に使われていたまさに同じ種類のインクと色を突き止め、今では出版業者にリマスターしたファイルを送れば、オリジナルと瓜二つの箱を作ることが可能だ。実際に一度、日本で展覧会展示用に、ドラゴンクエストの作者堀井雄二が最初に作った作品ラブマッチテニスのレプリカを頼まれて印刷したことがあったが、レプリカは素晴らしい完成度だったという。
 
さて、東京がゲーム保存協会の本部で、ルドン・ジョゼフはこの団体の理事長ではあるが、それでも彼はこのプロジェクトの牽引役のうちの一人でしかない。さらに本部はPCゲームがいっぱいに詰まっているが、保存協会ではコンソールとアーケードも同じように保存している。
 
ゲーム保存協会には新潟に支店があり、そちらは副理事長の福田卓也が管理している。ルドンはKryoFluxの詳細を日本語で書いた記事を出版した直後に福田と出会った。福田はまさに電光石火のごとく彼にメッセージを送り、ちょうど同じようなハードウェアを数か月か下手して数年かけて自作しようとしていたところだが、記事を読んだおかげで自分の時間を無駄にしなくて済んだ、と伝えてきた。心臓外科医の福田は、空き時間はハードウェアのハッカーとして過ごしており、任天堂ファミコン・ディスク・システムをはじめとする様々なゲームを保存するためのマシーンを作ってきた。
 
「これだけの技術があればすごいことができるから、団体として公式な形にしようと言ってくれたうちの一人が彼なんです。」
 

BEEPショップ

秋葉原BEEPショップの入り口

3人目の立ち上げメンバーは埼玉を拠点にPCやゲームソフトのネット販売をするBEEP社長の小林正国だ。BEEPは最近秋葉原に実店舗を出している。ここは今に蘇った日本レトロ・コンピューターの世界を自由に見ることが出来る、日本で唯一の場所だ。急な階段を下った狭い地下店舗BEEPでは、狭い通路にびっしりと20年に渡る日本の貴重な歴史的財産が詰め込まれている様子を目にすることができる。棚の一つにはPC-8801とシャープX1が実際に動作する状態で置かれ、フロッピーからゲームのデモが流されている。
別の一角には、ガラスの陳列棚が横向きにならなければ通りぬけられないような狭さで並び、信じられないようなPCのレア・ソフトが展示されている。そのほとんどが秋葉原の他の店で売られるレア・コンソール・ソフトよりはるかに高額だ。私がルドンと会う前日にデス・トラップを見つけたのもここだった。例えば日本ファルコムが最初に作ったゲーム、ギャラクティック・ウォーズ1は45万円の値札が付いている。ルドンもこのゲームを見つけるのに15年かかり、かなりの金額で一つ入手している。ギャラクティック・ウォーズは80年代に日本ファルコムのショップ内で客が注文するたび、すべてハンドメードでコピーし販売されていた。BEEPの陳列棚には他にも、その後三国志シリーズを生み出す光栄が作ったエロゲー「団地妻の誘惑」と「オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?」などが並んでいる。
 
さて、最後の保存協会理事はゲーム開発会社M2社長の堀井直樹だ。M2は現代のマシーンに合わせた古いゲームのエミュレーションに特化した会社で、セガエイジスコレクション、WiiU用バーチャルコンソールのゲームボーイアドバンス、任天堂Switch用聖剣伝説などを開発している。こうしてゲーム保存協会は小売販売から開発、そして愛好家のあつまりに至る、日本のゲーム文化のあらゆる側面にリンクしているのだ。他14名(2018年現在は20名)の正会員も取り組みにボランティアで協力している。
 

ゲーム棚

秋葉原BEEPショップの陳列棚に収められた高価なPCゲーム。機種ごとにわけられきちんとプラスチックで包装されている

さらにゲーム保存協会には名古屋某所に秘密の基地があり、メンバーの一人が「驚くべき世界一の日本コンソールゲームのコレクション」とルドンが呼ぶ膨大なコレクションをしまっている。この匿名希望のコレクターは2000年頃から出ているすべてのビデオゲームを買うことに決め、それ以前に発売されたコンソールゲームを時代を遡ってコレクションする傍ら、日本で発売されるあらゆるゲームを発売日当日にすべて購入しはじめた。現在もその購入は続いている。
「彼は今でも毎日ゲームを買っていますよ。リリースされたものは、あらゆる機種のものを。彼は2000年から、ずっと前から、こんな風にリアルタイムで全ゲームの収集をやっていたんですよ・・・ゲームだけじゃなく、ハードも。」
ルドンは続ける。
「彼は定年した後、残りの時間で、ゲームを遊んで過ごそうと思ってるんです。」
 


「ただし私たちはゲームコレクターではありません」とルドンは言う。ゲームのコレクションは競争だが、アーカイブはグループの協同が鍵だ。ルドンは最近アメリカにできた似たようなNPOのVideo Game History Foundationに触れる。ここを立ち上げたフランク・シファルディは私の友人だ。
「今は、私やフランクのようにほんの一握りの人がアーカイブ事業を行っています。私にとってこれはチーム作業です。みんな一緒に取り組まないと。」
 
ルドンによれば、ゲームのコレクターはだいたいがゲーム保存協会を一種の競争相手として見ているという。いったんゲームがアーカイブに入れば、それはもはや個人のコレクションとして家に置いておくことのできないものになってしまうから、コレクターらは自分たちが発見し集めたものを共有するのを嫌がることが非常に多い。「私自身、PC-88のゲームをコレクションしだした理由がこれなんです」という。「たとえ素晴らしいプロジェクトがあって、技術も揃っていて、何もかも準備が出来ていても、コレクターに参加を促すのはとても難しいということを知りました。」
 
ゲーム保存協会はその成果を広く世界と共有したいと考えている。だが、アメリカと比べてシビアな日本の厳しい著作権法のため、たとえNPOであっても、著作権で保護された作品のコピーを外に出すことは一切認められない。日本の法律が保存協会の取り組みにとって味方にはならない一方で、法律という点ではアメリカのフランク・シファルディが有利だ。根本的な状況が変わらない限り、保存協会では著作権の保護期間が切れるまでは情報を公開せずにゲームの保存を進めるしかない。だいたい50年かそこらだろうか。
 

ゲームマニュアル

ゲームのマニュアルを温度管理された保管室に注意深く戻すルドン

著作権が切れるまでに、国の権力が日本のビデオゲームを救うために動くことが何よりも重要だ。困難な戦いではあったが、保存協会はこのたびはじめて、政府からの助成金を受けたと言う。2017年の10月から、公開できる公式なPC-88 用ソフトカタログ制作にかかる1200時間分の労働に対する助成がおりる。カタログは来年公開の予定だ。「助成金がなければできなかったことです」とルドンは言う。「手始めとして悪くないと思います。良い方向に向かっていますよ。」
 
とはいえ、資金繰りはいつでもルドンにとって悩ましい問題だ。
 
ゲーム保存協会の取り組みはここ数年あちこちのメディアで良い形で取り上げられている。特筆すべきは日本唯一の公共放送局が海外向けに作っているチャンネル、NHKが制作した30分間のドキュメンタリーだ。よくできたドキュメンタリーで、日本中をめぐり保存協会の他のメンバーらと活動するルドンに密着、洞窟物語のデザイナーが作った印象的なドットアートのアニメーションも挿入されている。このドキュメンタリー放映前は、ボランティアスタッフ以外で、年2000円の経済的援助をする「サポーター会員」は20人程度しかいなかった。ドキュメンタリーが出てからは、サポーター会員の数が一気に200名に増えた。
 
だがルドンによれば、まだまだ数が足りないという。ゲーム保存協会には有給職員はいない。ルドンによれば、保存協会で得た資金の90パーセントは直接、活動費として使われており、管理費はわずか10パーセントほどしかない。役員メンバーたちも、こうした個人的活動を支える十分な経済的な余裕がある様子だ。ルドンは日本の某自動車会社で働くエンジニアで、福田は心臓外科医。堀井と小林は二人とも会社経営者だ。ルドンの計算では、今までに使われた彼らの個人的出費のすべてを合計すると1億円に上るという。そのうちの半分は、競争的で非協力的なコレクター市場によって高騰したPCゲームの購入に使われているという。残りは家賃や、備品、中性紙保管箱などのあらゆるものに使われている。
 
保存協会のメンバーたちはしばしば個人の貯金を個人的なプロジェクトのために投資しているが、彼らはたとえその資金が自分の銀行口座にきちんと入っていたとしても、それを団体のものとして計上することができない。「私たちは物理的アーカイブがあります。データベースもあり、知識もある。ものがあって、資料も、雑誌も、何でもあります。ゲームやフロッピー、雑誌など、それぞれの資料をどうやって保存すればよいのかやり方もわかっている。」
だが日本のNPOには、活動費の大部分を一般からの寄付で賄わねばならないという国の規定があるのだそうだ(脱税目的の悪用を避けるため)。だから理事をやっているメンバーは、アメリカでよくやるように、彼らのポケットマネーをNPOにそのまま投入することができないのだ。
 
他にも、ルドンはこれまでに出た好感度の高いメディア記事や美しいドキュメンタリーが、人々に間違った印象を与えているとも感じている。つまり、全て順調で完璧に保存されてるという印象だ。実際のところ、ゲームを保存するための資金は足りていないのだ。
 


本部3階の1室は、古い電気機器の修理を行うための別の作業室になっている。卓上には使いやすいよう整然と工具が収められ、塵ひとつない完璧な状態だ。様々なサイズのフロッピーディスク・ドライブが重ねられ、EPロム消去用のマシーンや、半田ごて、カセットテープのダブル・デッキ、あらゆる電子部品に対応した洗浄用器材がずらっと並んでいる。
 
そしてその中心の目立つ場所に、ルドンが愛してやまないPCエンジンが置かれていた。
 
保存協会本部はコンピューターゲームを専門にしているが、ルドンはPCエンジンを放り出すことができなかったのだ。PCエンジンは、まさに時代を先取りしたマシーンだ。1987年に日本で発売され、翌1988年にはゲーム機としてはじめてCDロムが搭載される。これは一般ユーザーが自分のPCにCDロム実装を考え付くよりもはるかに前の出来事だ。CDロム版で出された最初のPCエンジンタイトルは2つで、ストリート・ファイターの移植版として知られるファイティング・ストリート、そしてNo-Ri-Koというデートゲームだ。これらはCDという形で発売された世界最初のゲームである。
 
実はPCエンジンのCDロムは発売時期が早かったために、現代の一般的なCDの規格からは外れている。「基本的にはオーディオCDなんです。データがオーディオとして録音されています。」
一般的なCDは頭にTOC(テーブル・オブ・コンテンツ)というトラック情報を記録した部分が存在するが、PCエンジンのCDロムはそれを使わず、再生しながらドライブ側にデータの位置を知らせる「サブコード」のみ使用する。「この仕組みのせいで、例えば遊んでる間にゲーム機に衝撃を与えると、音だけが消えたりするんです。」
CDを読み込むレーザーに振動を与えると、レーザーが読んでいる列から外れ、次にどこに戻ればいいのかわからなくなるのだ。「ストリーミングみたいなもので、頭出しが出来ないんですよ。いったん読んでるストリームから外れたら、全部なくなってしまうんです。」
 

ポートフォリオ

アート作品用のポートフォリオに保管されるゲームの背表紙

PC-88のゲーム同様、PCエンジンのほとんどのCDロムはファンたちが自宅の器材でダンプしており、エミュレーターで遊ぶことが出来る。だがそれはリマスターではない。「ゲーム保存協会には、全ての情報を完璧に読み込み、再現するための技術があります」とルドンは言う。次なる彼らの目標はPCエンジンCDロムの完全なレプリカを作り、実機で元のゲームが動いていたのと全く同じように動作させることだ。
 
手遅れになる前に。
 
フロッピーとともに生まれ育った人ならわかると思うが、こうした磁気メディアは非常に脆い。所詮は磁石だ。例えば私が買ったデス・トラップも、冷蔵庫に近づけすぎただけで一発で消えてしまう。そんなフロッピーに比べればCDは安全に見える。私が持っているオリジナルのパッケージに入ったCDは、プレスされた時と変わらない輝きを保っているように見える。すぐ読み込みできなくなることなんてあるのだろうか?
 
「自分のCDは大丈夫だと思っているでしょう?でもそれはありえないことなんです。」
ルドンが言うには、あらゆるCDはプレスされた瞬間から、単純に製造過程の問題で、いくつかのエラーが含まれているらしい。CDは20パーセントまでの物理的エラーなら情報を読み取れるよう、初めからある種のゆとりをもって作られている。「ただし20パーセントを超えると、エラーを修復するアルゴリズムが動作しなくなり、全ての情報読み込みをやめてしまいます。」
 
現代一般的なCD製造の規格では、ラインから出荷された状態で含まれるエラーは1パーセント以下だ、と彼は言う。だがPCエンジンのディスクが作られた当時、こうした規格は存在しなかった。ルドンが言うには、新しく作られたPCエンジンのディスクは最初の段階で約5パーセントのエラーを含む。そして日を追うごとにこのエラーの数は増していく。数年前に保存協会がはじめてPCエンジンのCDのローレベル・アナライズをはじめた時、中古ディスクのエラー数は6から7パーセントだった。
 
現在、彼らがその同じディスクをチェックすれば、エラー数は9から10パーセントに上がっているという。CDロムは死にかけている。それも思ったより早いスピードで。我々が生きているうちに、ある日突然、PCエンジンのディスクが読み込み不可能になる日がやってくるのだ。もしそうなっても、全てをリマスターできたらとルドンは願う。きっと大勢のコレクターたちが集めたお宝が死んだことを知って涙を流すだろうが、きちんとした保存さえできていれば、そんなことは問題にならないのだ。
 
「まだ時間があります」彼は言う。「でも、早く保存に取り掛からねばなりません。」
 
補足:元の記事に掲載された、ゲーム保存協会が使用している保存容器を製造する社名に誤りがありました。また、コンソールゲームをコレクションする場所の地名も同じく誤表記がありましたので、訂正いたしました。追加して、ルドン・ジョゼフの毛髪に関して「剃っている」との記載がございますが、彼の毛髪は病気による脱毛が原因です。度重なる誤記をお詫びいたします。
 
ゲーム保存協会からの一言:本文中、等々力が観光客用の町ではないという記述がございますが、ゲーム保存協会一同、この発言は等々力の魅力を知らないが故の過小評価である点、強く遺憾の念を表明いたします。等々力には駅最寄り、ゲーム保存協会とは反対側に少し歩きますとパワースポットとして、また春の花見や夏の避暑先として人気の等々力渓谷がございます。理事長ルドンがお勧めする日本一のフランス菓子店「オー・ボン・ヴュー・タン」や小粋なフレンチ・レストランが軒を連ねるオシャレな地区もございます。等々力商店街イチ押しマスコット、とどロッキーが皆さまをお待ちしております。どうぞ皆様、等々力に遊びにお越しください。
 
著者:クリス・コーラー
翻訳:ルドン・絢子

Falcom Donation

ファルコム黄金期の歴史的資料を寄贈いただきました

日本マイコンブーム時代から現在まで、良質なゲームを作り続ける老舗メーカーの日本ファルコム株式会社様。このたび、80年代のPCゲーム黄金期にファルコム社内で活躍したというユーザーサポート用フロッピーディスクのデットストック一式を寄贈いただきました。
 

受け取った宝箱を開ける

丁寧な梱包を掘り出す

当協会に今回寄贈されたディスクは、今年発売から30周年を迎えるイースをはじめとしたフロッピー計262枚。これらのディスクは、ゲームを買ったユーザーが初期不良やバグなどの問題でゲームを通常通りに遊べなかった際、交換に配られたものです。つまりどのタイトルも全ての問題を修正した最終版データが記録されています。また、交換用の新品ですから、全てユーザーによるデータのセーブがない書き込みなしの状態です。
 

交換用の初期のイースのディスクたち

貴重な資料で緊張感が高まる

日本ファルコム株式会社様といえば、魅力的なゲームを作っているだけでなく、そうした社内の歴史も大切にしているというイメージがありますが、今回寄贈いただいたディスクも、社内できちんと保管されていたことが伝わってくる大変良好な状態です。日本のゲーム史を盛り上げてきたファルコムの貴重な歴史資料として、262枚のディスクたちは今後、ゲーム保存協会のアーカイブ室の中で長期保存されます。
 

円盤の表面のカビ状態をチェック

5.25インチ専用の保存容器

当協会のアーカイブ室は温度と湿度を365日管理し、日光や磁気など資料を痛める危険性のあるものを排除した専門ルームです。資料の劣化を抑えるために株式会社資料保存器材様と開発したフロッピーディスク専用保存容器の中に資料を移し、次世代に伝えて行けるよう現物を保管します。さらに、劣化によるデータの完全消失を防ぐため、専用機器を使いフロッピーの中身をデジタル化。2段階の保存作業で資料の消滅を防ぎます。
 

一枚一枚をQRコードでDBに登録する

媒体専用アーカイブ室の様子

今回の寄贈は、私たちにとってとても意味のあることです。ゲームを作る側である日本ファルコム株式会社様からの当協会の活動に対する信頼にしっかり答えていけるよう、これからも1日でも長く、そして1つでも多くの歴史資料を保存していきたいと思います。
 
アーカイブ室は現在、一般公開に向けての準備中です。ゲームの歴史を学ぶ研究者や、次世代のクリエイターのために活きたアーカイブを目指し全力で活動していますが、まだまだ準備にかかる人や物資が足りない状況です。1万点以上の80~90年代PCゲームソフトを保管するアーカイブ室、一般公開を実現するには皆さんからのご支援ご協力が必要です。ぜひ活動にご参加ください。
 
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ゲーム保存協会 ルドン
 
撮影 ニコラ・ダティッシュ(Nicolas DATICHE