特別講演「伝説のゲームクリエイターに聞く」第4弾を終えて

ゲーム保存協会恒例となりました夏のイベント「伝説のゲームクリエイターに聞く」第4弾を本年も無事に開催させていただくことができました。
2019年8月3日にマイステイズ御茶ノ水コンファレンスセンターにて、今年はジークゲームズ代表取締役社長 宮路洋一さんに御講演いただきました。
宮路さんと言えば高い技術力で素晴らしいゲームを数多く発表してきた「ゲームアーツ」を設立した社長として有名ですが、その他にも非常に多くのゲームをプロデュースされてこられた方です。

今年も猛暑の夏です。当日は快晴で最高気温は34℃という真夏日でした。
午前中に正会員によるNPO年次総会を行い、会計報告やいくつかの議題を協議し、滞りなく総会は終了しました。

講演に先立って13時より「ゲームアーツの黎明期」展を開催しました。例年同様に協会メンバーが所蔵している国産PC市場で発売されたゲームアーツのゲームバッケージを数多く展示しました。更に今年はPCショップにあった店頭デモのディスクからイメージを作成し、パッケージだけではなくそれぞれのゲームのデモをエミュレータを使用して展示しました。
プレイアブル展示としては、ゲームアーツの代表作「テグザー」のPC-8801mk2SR版を用意しました。久しぶりにプレイしましたが、やはり難しい!

宮路さんはお忙しい中、14時開始の講演でしたが、13時の展示にも参加いただきました。
ご持参いただいた「ぎゅわんぶらあ自己中心派」の仕様書や当時執筆されたVIC-1001用ゲームブックなど貴重な資料を展示させていただきました。
展示されたゲームをご覧になりながら、講演外でしたが様々なお話をお伺いすることができました。個人的に興味があった話が有名なパズルゲーム「上海」に関するものでした。いつかお時間をいただき、もう少し詳しくお話させていただきたいと思いました。

講演には100名分の席を御用意させていただきましたが、事前の予約状況を確認すると満席で、今年は正会員の方が7割程と年々会の規模が大きくなっていっていることを感じました。

14時から小休憩を挟んでの3時間、ゲーム保存協会特別講演を開始しました。
事前に調べたところ、宮路さんはPC雑誌で多くのインタビューをお受けになられ、いずれの雑誌編集の方も宮路さんはお話が上手でつい時間を忘れてしまうというようなことが書かれていました。
実際に講演は3時間でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。

まずアマチュア時代からアスキー第二出版部を経て、ゲームアーツ設立までのお話を一区切りとして伺いました。
ゲームやPCを目当てに秋葉原通いをしていた頃からアスターインターナショナル、COSMOS秋葉原でのアルバイト始められたことや、バイト先の店長であった浜田義史さんとの繋がりで、突然アスキーでの仕事が始まり、AXシリーズの企画やゲームデザインを行っていたということでした。
特にご自身がゲームデザインをした「SX-2 ドイツ アフリカ装甲軍団」は今でも名作の自信があるとのこと。音楽もリリー・マルレーンを許諾を取って使用したなどのお話をいただきました。
残念ながら当時は小学生でP6ユーザーではなかったため、自分は未プレイでしたが、これからぜひプレイしてみたいゲームでありました。
またMSX発売前夜のアスキー内では、とにかくなんでもいいからゲーム作ったらxxx万円だったというお話。プロデュースはやめて結局自分でも作ることに。いったいどのゲームなのか気になります。
1985年にゲームアーツを設立。設立時のメンバーの方についてお話いただき、弟さんである宮路武さん、池田公平さん、上坂 哲さん、内田俊幸さん、松田充弘さんなどの方々との出会い、関係についてお話いただきました。

続いてPC市場がメインであったころのお仕事や発表されたソフトについてお伺いしました。
土樽スキー場へPC-8801mkIISRを持ち込んで合宿したという話し。過去のインタビューなどでは、年末の1週間だけSRをNECからレンタルし、テグザーのプロトタイプを開発してNECに見せた所、SRの貸出の延長を許可されたという記事がありましたが、宮路さん曰く、実際は1週間で出来るわけがなく、打ち合わせはしたが、スキーに行っただけとのことでした。

設立当初は狭いアパートを借りて活動をされていたようですが、テグザーで一躍注目されるソフトメーカーとなり、3LDKぐらいのアパートへ引っ越したとのこと。
その頃は、雑誌への広告やディスクのデュプリケートからパッケージングまでが宮路さんの仕事であったそうで、月に1000枚ぐらいフロッピーディスクを自分でコピーしていたとのこと。
使用するフロッピーディスクドライブをレンタルショップから借りていたそうですが、3日ぐらいで壊れてしまい「壊れていますよ」と言って返却していたとは、レンタルショップが可哀想です。
大量のフロッピーディスク、パッケージが積まれ、その脇で現金書留が大量に届き、奥では開発をしているという「何がなんだかわからなかった」というぐらい非常に大変だったとのお話でした。

その後もシルフィードやゼリアード、ヴェイグスなど発売されたソフトについてお伺いしました。
シルフィードは、学校行かずに弟さんが作っておられ、非常に大変だったが、よく出せたなとのこと。ポリゴンを使ったシューティング、CSMトーキング、ワイヤーフレームのデモなど、自分達のやりたかったものや好きだったものをとにかく詰め込んだとのことです。

この様なお話の中で、雑誌ランキングなどの変遷から、ゲームアーツとしてのラインナップはどのように考えられていたか聞いてみました。
すると意外なことに、全く管理しておらず、みんなが自分の好きなようにゲームを作っていただけだったとのこと。いつぐらいに発売が可能かは見ていたが、とにかくやりたいことを作って行っただけ。アクションゲームに偏っている印象を受けていましたので意外でした。

そういうやり方であったため、自分は好きに麻雀ゲームを作ったとのこと。ぎゅわんぶらあ自己中心派シリーズや雀皇登竜門シリーズのお話は非常に興味深いものでした。
ぎゅわんぶらあ自己中心派はプログラマーである小松田裕一さんを1年間、缶詰にして作成したとのこと。小松田さんはパイパニックを作っていたにもかかわらず、麻雀を全く知らなかったということがプログラマーとして抜擢した後にわかったというお話。
宮路さんは夜に麻雀をやって、負けて悔しいから、それを日中にゲームの思考ルーチンに入れていたたということです。
雀皇登竜門はぎゅわんぶらあ自己中心派からツキをなくしたもので、日本プロ麻雀連盟公認を取った初のゲームですが、小島武夫さんとの出会いや麻雀のお話しも面白すぎでした。

趣味や好きなジャンルでゲームを作って、うまく行かなかったというお話もありました。
もともとボードゲームやシミュレーションゲームがお好きで、趣味を色濃くして作ったものがHARAKIRIであったとのことです。趣味で作るとたいてい失敗するということですが、HARAKIRIは名作だと思いますし、これを作ったから天下布武に繋がったとのことでした。

好きで作ったファミスタ。遊んでいて凄く面白いゲームであったため、ナムコへPC版の版権を貰って作ったようですが、88VAというプラットフォームの市場が狭いこともあり、対戦できるようにデュアルジョイポートまで作ったのに全然売れなかったとのことです。独自仕様であった、ペナントレースやニュースなど、本家のナムコ版へ取り込まれた要素もあるぐらい、よく出来たソフトだったと思います。

社長であった宮路さんですので、当時の国内ゲーム制作会社間の繋がりであったり、バンゲリングベイやシムシティを開発したWill WrightさんやSierra On-lineのKen Williamsさんとの関係、ソフト流通やデュプリケイト業者についてもお伺いすることができました。
特にゲーム会社の社長の方々は強烈な人ばかりで、SSTの社長会のことなどもお話いただきましたが、あまり表には言えないような活動だったようです。

多くのゲームを作成したPC市場でしたが、次第に衰退し、思うように売上が出なくなったことや、コンシューマー機の性能向上があり、コンシューマーへ参入していくことに。
ここで一度、小休憩をいただきました。

再開からはコンシューマーでの活動についてお伺いしました。
ゲームアーツ開発のゲームはパブリッシャーとして参入する以前から多くあったことが知られていますが、コンシューマーの方が売上があるから作ってみたいというようなことは全く考えていなかったとのこと。ファミコンのSDガンダムなどガンダムが好きでゲームを作ってみたくて作っただけであったり、PCエンジンのぎゅわんぶらあ自己中心派などは頼まれたので作ったりしていただけだったというお話でした。

ではどうしてセガのメガドライブに向かったのか?という疑問ですが、宮路さんが興味を持ったものがCD-ROMだったとのこと。1984年ぐらいから注目されていたようですが、期待していたCD-iは発売されず、PCエンジンのCD-ROM2も自分の思っているものではなかった。そのときにセガのメガCDが自分の求めていたものであったため、セガに行ったというお話でした。
セガや佐藤秀樹さんとは馬が合い、当時のセガの熱意が凄く、メガCDのに全部のリソースを掛けてみようということに。
その様なゲームアーツの熱意もあり、佐藤さんにメガCDのRAMを増設するようにさせ、結果メガCD 本体の価格が上がったのは宮路さんのせいだと仰られておりました。MEGA CDのGAはゲームアーツのGAであるという勢いで、ゲームを作成、発売していくことになります。

メガドライブ、メガCDで発売されたゲームについて、それぞれのご苦労を伺いました。
天下布武のオープニングやゆみみみっくすなどは、MPEGなどの規格が無い中、動画を再生する方法から、アニメスタジオを作って動画を作ったりと、一から全部を作るという過程が必要であったようです。
ぎゅわんぶらあ自己中心派2激闘!東京マージャンランド編はオリジナルの世界観を作り、これまでの全部のキャラを入れて喋らせるなど、集大成となった作品でした。
またシルフィードはとにかくポリゴン表現に拘った作品で、当時はリアルタイムで描画出来なかったので、背景の動画との組み合わせを苦労しながら作ったとのお話。フラクタルで地形を作ったりと、とにかく映像表現に拘った作品でした。
どのゲームも一貫してCD-ROMでどんなことが出来るのかを模索しつつ、素晴らしいゲームに仕上がっている作品でした。

またメガCDで発売されていた初期の海外ソフトであるシムアースやライズオブザドラゴン、ウイングコマンダー、プリンス・オブ・ペルシャのローカライズは全部ゲームアーツがやっていたようです。とにかくメガCDを盛り上げなければ行けないというような使命があったのでしょう。

更にハードを売るために必要な戦略としてRPGを作成することとし、スタジオアレックスやガイナックスの面々とLUNARザ・シルバースターを作成することに。
RPGはノウハウが無かったので非常に苦労されたようです。シナリオやキャラクターデザインは非常に良かったのだが、戦闘のエフェクトなどが完成に間に合わなかったので、エンカウントは1/20にして見せないように調整したとのことでした。あのエンカウント率の低さはそんなことが原因だったということを初めて知りました。
このように1が消化不良だったため、LUNARエターナルブルーはちゃんと作ったとのこと。宮路さん自身、3ヶ月ぐらい会社から出られず、シナリオや世界観、戦闘もしっかり作り込んだ作品に仕上がったというお話。メガCD終盤に発売されましたが、本当にこのゲームは傑作だと思います。

このような数多くのゲームをメガドライブ、メガCDで発表したゲームアーツでありました。そのころにはセガに完全にハマっており、その流れでセガサターンへ。セガサターンは凄いマシンで、今度は任天堂に勝てると思っていたそうです。

一方でプレイステーション前夜でもあり、ソニーの久夛良木 健さんとのご関係もお伺いしました。既にセガ派であったことや、弟さんと久夛良木さんとで技術的な点で意見が合わなかったことなどもあり、ゲームアーツはセガサターンに全力を注ぐことになります。

セガサターンでは、ガングリフォンについて伺いました。オープニングCGなどは現在の白組の前身が作成されたそうです。
ミリタリーに拘りがあったため、リアリティを追求する形で設定を考えていたとのこと。ロボットは戦車とヘリの中間に位置するであろうという想定のもと、ゲーム性を追求してこの形になったそうです。
ガングリフォンはIIも作られました。こちらも良いゲームでしたが、やりたかったという対戦を盛り込んだものの、これは一般にはかなり無理が。テレビ、本体など完全に2セットが必要というものです。宮路さん曰く、それがゲームアーツとのこと。ファミスタと同じです。

私がセガサターンの時代で一番お伺いしたかったのがEntertainment Software Publishing(ESP)とGD-NETです。この頃にはゲーム1本あたりの制作費がかなり高額になっていたため、パブリッシャーを作る必要があり、また大川功さんからの援助もあって、このような団体設立となったそうです。参加した会社からは、普通の大手では出せないような挑戦的、個性的な良いゲームがいくつも発表されました。
その流れで、大川功さんとのお話もお伺いできました。凄い事業家で、本当に漫画の世界のようなお金持ちであったとのこと。セガへの寄付やソフトバンクを出資、いくつもの逸話などを聞いて、ただただ驚愕するばかりでした。

その背景も手伝って制作できた、大作グランディア。社運を掛けたとのこと。サターンの性能をうまく使ったゲームで、ポリゴンとアニメスプライトというシステムは世界初です。

制作には非常に苦労されたようです。このころでRPGのノウハウがかなり培われたということでした。監督の本谷利明さんが非常に優秀な方でしたが、途中で居なくなっちゃう人だったそうで、タバコを買いに行って3日帰ってこなかったりしたそうです。監禁得意というパワーワードを頂きました。
グランディアは自分も本当に名作だと思います。今遊んでも十分楽しめる作品だと思います。

この様な時代背景の中、任天堂、ソニー、セガとの間で所謂ゲーム機戦争があったと思いましたので、こちらについてもお伺いしました。
宮路さんは意外にも、このような良い盛り上がりが必要で、楽しかったと思っていたそうです。
そしてプレイステーション勝利の理由としては、コンシューマー時代の流通であったというのが宮路さんのお話でした。ソニーの流通とスクウェア、エニックス、ナムコが結果としてプレイステーションに行ったこともあってプレイステーションの勝利となってしまったと。
一方で宮路さんは好きなことをやっていただけで、プレイステーションに行かなかったので、全然儲からなかったそうです。

最後はドリームキャストからプレイステーション2のお話をいただきました。
既にPS2の話しがあり、ドリームキャストは勝てないと思っていたそうですが、大川さんにドリームキャストが自分の夢だと言われて、大川さんの為にとドリームキャストへの参入を決めます。
その頃のESPの売上、利益からマザーズに上場しようと思っていたそうですが、こちらは大川さんに引き止められ、上場せずにESPでドリキャス市場に良いソフトを発表していきました。しかし残念な結果であったとのこと。

ドリームキャストでゲームアーツから唯一発売されたグランディア2についてお伺いしました。
当時宮路さんはESPのことを中心に仕事をされていたので、積極的には関われなかったそうです。
絵や戦闘は良かったと思っていらっしゃるようですが、シナリオに関わって面白くしたかったというのが心残りだというお話。

セガのドリームキャスト撤退からはPS2市場への参入となりました。
PS2でのゲームとしては、鄭問之三國誌でしょう。
制作に5年掛かり、そのうち絵に4年掛かったそうです。鄭問さんの描きたいようにようにやってもらったことで、美術史に残る良い作品ができたとのこと。
ゲームデザインも天下統一を作られた黒田幸弘さんが制作され、難しいが面白い作品になっています。

またグランディアシリーズがPS2でスクウェア・エニックスから販売されることになったこともお伺いしました。エニックスからグランディアをPS2で作らないかという話しがあって、制作することになったそうです。結果的にドラクエ、FF、グランディアの全てがスクエニとなりましたが、タイトルが残せたことは良かったと思っていらっしゃるようでした。

これまでの作って来られたゲームを振り返っていただき、「ゲームアーツで好きなゲームを作っていたが、資金繰りに追われるなど、自由に作る難しさがあった。しかしお金はなくなるけど作品は残る。苦労した作品は覚えている。いい作品を苦しみながら作るのはゲーム遊ぶより楽しい」という深いお言葉をいただきました。

最後に「宮路さんにとってのゲーム制作とは?」とお伺いしたところ、「趣味ですね。趣味と実益が一緒。ただ、本当に趣味の部分で作ってしまうと、ファミスタみたいにうまく行かないです。自分がやりたいゲームを作りたいというが今でもあります。」というお言葉をいただき、プロデューサーとしての苦労を伺えるお言葉だと思いました。笑いの絶えない興味深いお話をいただき、講演を終了させていただくことが出来ました。
今日の言葉は「CD-ROM」、「監禁得意」、「資金繰り」、「任天堂はいい会社」でした。

終了とした後に10分ほどお時間があるようでしたので、私が興味あることとして「ネットワークをどう考えていたのか?」ということを追加でお伺いしました。
アスキー時代はCompuServeなどに接続しており、ネットワークの未来は感じていたそうです。グランディアを制作していた頃にはネットワークの時代が来ると思い始めていたようですが、そこまで手が回らなかったため、作品はガンダムネットワークオペレーション発表までなかったとのこと。
またコンシューマーとネットワークは文化が違うと思っていたため、ゲームアーツをネットワークに振るのではなく、新しくネットワークに取り組みたいと思いゲームアーツを退社なされたとのことでした。
ここまでお話をいただき、講演は終了となりました。

 

公演終了後には、事前に申し込みいただいたサポーターの方々と会場を変えて懇親会を行いました。
こちらへも多くの方々にご参加いただいき、先の講演ではお話できなかったようなことまで宮路さんからお伺いすることが出来ました。懇親会もあっという間に時間が過ぎ去ってしまい、気づけば19時の解散となりました。

宮路さんとお話をさせていただくと、本当にあっという間に時間が過ぎてしまうということを体験しました。
長時間に渡り講演、お付き合い頂いた宮路洋一さんに感謝させていただくとともに、本年もイベントへご来場、参加くださった多くの方々、活動へ賛同いただいておりますサポーターの方々へ感謝いたします。

ゲーム保存協会はゲーム保存活動や研究のみならず、講演などを通じてゲームの歴史を掘り起こし、伝えていく活動も精力的に開催させていただきたいと考えております。こうした取り組みはサポーターの皆さまからのご支援により実現するものです。これからも活動を継続できるよう励んでまいりますので、今後ともご協力の程どうぞよろしくお願いいたします。

宮路さん、福田さん、
ありがとう!

JK-Radio

理事長ジョゼフがラジオに生出演しました

通勤途中に聴くという方も多いJ-waveの朝の人気番組に当協会の理事長ジョゼフが生出演しました。
理事長本人もリスナーとしていつも聴いていた番組です。
六本木の綺麗なスタジオで素敵な朝日を見ながら、ゲーム保存について熱く語る様子は、以下のリンクから2019年1月4日まで視聴できます!
来年の課題は協会の場所探し。個人だけでなく企業や団体など多方面からのサポートを必要としています。
お正月休みのひと時、日本のゲームを愛して海を渡ったフランス人理事長ジョゼフの声を聞きながら、ぜひ今後のゲーム保存の未来について一緒に考えてほしいと思います。
 
録音へのリンク(メディア掲載ページ)
 

J-WAVEスタジオ

六本木ヒルズ森タワー33階にあるスタジオ

東京の朝7:00

朝7時の東京の日の出

特別講演「伝説のゲームクリエイターに聞く」第3弾を終えて

2018年8月4日に昨年と同会場のマイステイズ御茶ノ水コンファレンスセンターにてゲーム保存協会主催による講演イベント「伝説のゲームクリエイターに聞く」第3弾を開催しました。
これは毎年開催しておりますイベントで、昨年は元日本ファルコムの木屋善夫さん、山根ともおさんとログイン元編集長 新井創士さん(ほえほえ新井さん)の3名をお迎えしました。
「東の木屋」とくれば「西の内藤」です。
というわけで今年は「ハイドライド」を筆頭に数々の名作を生み出された元T&Eソフトの内藤時浩さんに御講演いただきました。
 
例年にない猛暑の夏ですが、当日も快晴、最高気温は34度という真夏日でした。
午前中に正会員出席によるNPO年次総会を行い、会計報告やいくつかの議題を協議し滞りなく総会は終了しました。
 
 
 
講演に先立って13時より「ティーアンドイーソフト―名作ゲームを振り返る―」展を開催しました。非常に貴重なPC-6001用の「リアルゴルフゲーム」の初期版の黒い箱パッケージなど、協会メンバーが所蔵しているT&Eソフト作品のパッケージが数多く展示されました。
また内藤さん、ボマーンさん、KAJAさんのご厚意で、現在制作中のゲームであります「New CITY HERO」をプレイアブルデモとして展示させていただきました。「New CITY HERO」はPC-8001mk2+PCG8200が推奨環境という、今日では動作環境を用意することが非常に難しいものでしたが、こちらは「80mk2会」の有志の方々に機材の準備をいただき、多くの方にプレイしていただくことが出来ました。
 
 
 
14時から小休憩を挟んでの3時間、ゲーム保存協会特別講演「伝説のゲームクリエイターに聞く」シリーズ第3弾の講演を開始しました。
講演には100名収容できる会議室を用意させていただきましたが、事前の予約で満席となる盛況ぶりでした。
これまでの内藤さんの講演やインタビューはハイドライドやT&Eソフト在籍中を中心としたものが多い印象でありましたが、今回はアマチュア時代から現在のお仕事まで、余す所なくお話いただける形で資料を準備して望みました。
 
まずは高校生時代。当時からゲーマーでゲームセンターに入り浸っていたようですが、電卓競技会で優勝するなど、活発な高校生活を過ごされていたようです。
当初ナイコン族でマイコンショップへ足を運んでMZ-80Kで作品を作られていたというお話。プレイしていたアーケードゲームを目移植し、その時からすでにマシン語バイナリをいきなり入力していたということです。当時から人間じゃないです。
 
 
 
PC-8001を入手後は数々の作品を作られ、工学社のI/O誌へ掲載された作品や第1回アスキーソフトウェアコンテストの入賞作品などのことも伺いました。
そして20才の誕生日前日にT&Eソフトへ入社。突然PC-8801担当に任命され、四角い豆腐を動かすのに1週間ぐらい掛かったということでしたが、あっという間に「コスモミューター」を一人で作成してしまうという凄いお話。
代表作「ハイドライド」シリーズも裏話や苦労話をお話しいただきました。初代ハイドライドは2年間もランキングに登場しつづけるというロングヒットで「大乱闘スマッシュブラザーズ」に抜かれるまで日本記録だったということです。ロングヒットであるとは知っていましたが、そこまでのものとは今回初めてわかりました。
また当時ライバルとして雑誌で取り上げられることの多かった元日本ファルコムの木屋さんとの関係についてお伺いしたところ、「強敵」と書いて「友」と読む関係とのお答え。やはり意識されていたようです。
 
MSXでの開発やクリスタルソフトとの合併、コンシューマーでの海外ローカライズ作品とそれにまつわるお話も非常に興味深いものでした。
「ライズオブザロボッツ」開発でイギリスを訪れたときのお話は爆笑です。迎えに来てくれた女性の運転の話し、プログラマーがドラムを叩いていたこと、などなど。
 
そしてT&E時代最後の作品となった「ヴァーチャルハイドライド」。実写撮影の苦労や王女役の方のこと、バラリスや主人公のダメージ時、ゾンビなどの音声は実は内藤さんご本人だということなど、知らないことだらけでした。開発には非常に苦労されたようで、開発終了後に潰瘍性大腸炎になってしまったとのこと。私が本当に好きな作品なので、ここで多めに時間を取ってしまい反省しています。
 
 
 
ヴァーチャルハイドライドの後はT&Eソフトから独立、起業されたEOイマジネーションでのお話をお伺いしました。出世によって開発現場への関わりが薄くなっていったことが独立の理由ということですが、社長としての苦労は想像以上であったようです。
PCエンジン開発環境キット「でべろ」や「GAME BASIC for SEGASATURN」で開発された、雑誌掲載のサンプルゲームについてお伺いしました。
ゲームを作成しプログラム解説記事を書いたにもかかわらずギャラを貰ってないというお話でした。あれだけ詳細な解説があってノーギャラは辛いですね。
 
EOイマジネーションは「アサンシア~魔杖の呪縛~」「ドラゴンマネー」といった作品を発表した後にクローズし、縁あってコンピューター総合学園HAL名古屋校の教師となられたというお話も。
当時の生徒だった方より人気の教師だったと伺っておりましたが、ゲーム開発から社長まで努めた経験は多くの方へ良い指導となっていたと思います。
一方で、お仕事はかなりの激務であったようで、朝6時から帰宅は24時という日々だったそうです。
 
教師として4年半勤めた後は株式会社ディープに入社され、ゴルフゲームやゴルフシミュレーターの制作に携わったというお話もしていただきました。
それまでゴルフは嫌いだったようですが、シミュレーター制作のためにプレイしてみたところからゴルフに目覚め、現在のベストスコアは90だそうです。
BINGO BREAK ONLINEなどのオンラインゲーム開発の後、会社はスパイクソフトの開発部へ移行したため、内藤さんも所属が変更し、巻き込まれる形で履歴書が長くなっていったとのこと。
当日、この講演会の会場にも駆けつけてくださったスパイク・チュンソフト取締役会長の中村光一さんとはそれまで面識がなく、忘年会で初めてお会いしたということでした。内藤さんにとって中村光一さんは雲の上の存在であったということです。
コンシューマーゲームへの復帰となった「不思議のダンジョン 風来のシレン4plus 神の眼と悪魔のヘソ」開発の苦労をお話いただきました。Twitter連携はこのゲームが走りであったということで、いつも人より早いという内藤さん。こういう先見の明はご顕在です。
 
 
 
2014年からはM2に移籍され、このときの経緯などもお伺いしました。面接に訪問した際、ハイドライド作成のときの話をしていたら採用されたということ。やっぱりレジェンドです。
移籍後はWiiUのバーチャルコンソール ゲームボーイアドバンス タイトル開発ディレクターを務められ、そしてPS4/3/steam「恋姫†演武」 開発ディレクターで苦労されたお話は、会場にいらっしゃったM2社長の堀井さんからもお答えをいただいたりしつつ裏話をしていただきました。M2はスーパープログラマーが揃っていることで有名ですが、その中でも本当にスーパーな方がいらっしゃいます。
 
最後に、今回プレイアブルデモ展示させて頂いた「New CITY HERO」のお話をお聞きしました。
もう1〜2ヶ月で完成のようですが、どの様に公開できるか検討中ということでした。本当に凄い作品なので日の目を見ることを期待しております。
また思いがけない発表として、次回作はP6でハイドライド2(のようなもの)を作ると宣言されました。こちらも期待です。(その次も決まっていて、ぴ…)
 
最後に現役でゲーム開発に携わっておられる内藤さんに「内藤さんにとってのゲーム制作とは?」とお伺いしたところ、「人生かな。目と指が動く限りは80才、90才の妖怪になってもゲームを作ります」という嬉しいお言葉をいただき、終了となりました。内藤さんの温かいお人柄もあって、終始笑いの絶えないトークで講演を終了させていただくことが出来ました。
 
 
 
終了後は会場を移動して、サポーターの方々と懇親会。
理事長ルドンの乾杯の声でスタートです。
こちらも多くの方がご参加くださり、これからのNPOの活動につながるようなお話をさせていただくこともでき、NPOとしても日頃ご支援くださっている皆さまと交流を深めることが出来ました。
内藤さんはお酒も入って、講演会では話し難かったようなこともポロポロと。
気づけばすっかり日も暮れて、すこし涼しくなったあたりで解散となりました。
 
今回のイベントにご来場、ご参加くださった多くの方々へ感謝いたします。
また、動体展示のためにお力添えくださいました「80mk2 会」の皆さまには、改めまして深く御礼申し上げます。
ゲーム保存協会はこれからもゲーム保存活動や研究のみならず、講演などを通じてゲームの歴史を掘り起こし、伝えていく活動も精力的に開催させていただきたいと考えております。こうした取り組みはサポーターの皆さまからのご支援により実現するものです。日頃ゲーム保存協会の活動にご支援ご協力いただいている皆さまに、協会員一同、深く感謝いたします。そして、これからもこうした活動を継続できるよう、真摯に取り組んでまいります。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。