Shunga

21世紀のジャポニスム ――エロゲーも文化だ!(後編) ――
ゲーム保存協会の名物理事長、フランス人ジョゼフが語る本当のクール・ジャパン

敬遠される“下”文化

古いものを破棄するだけでなく、日本では特定の主題や傾向を持つ文化的活動が、そもそも文化としての受け入れを拒否されるケースがあります。政治的アピールの強い作品や残酷な表現など様々なケースがありますが、特にわかりやすいのが「エロ」=性要素のある作品群。

海外では芸術的表現として認められるものが日本では受け入れてもらえず、美術館など保存や研究の場から排除されてしまう例が散見されます。角々にあるコンビニにはあんなにエロ本が積んであるのに、なぜかそれがアートになると規制がかかるなんて、フランス人の目にはとても奇異にうつります。

最近話題になった春画展などはそのよい例です。春画は海外ではその独自の表現が高く評価され美術作品として鑑賞の対象になっています。しかしながら日本では、この100年前の性表現が芸術的表現として評価されるよりも性的刺激剤の一種、性的な「商品」としてタブー視されたままのようで、大規模な企画展もスポンサーが付かなかったり苦情を恐れて開催に踏み切れなかったり。紆余曲折あってようやくこの9月に都内で展覧会の開催が決まったそうですがビックリです。映画でも大島渚の「愛のコリーダ」など、芸術性を高く評価されているにも関わらず日本ではいまだに完全版の上映が出来ないままのものが沢山あります。

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パリのピナコテーク美術館で行った春画展(2014-2015年)


商品としてのエロ、芸術としてのエロ

新宿を歩けばそこかしこに風俗店の看板がかかり、子どもがよく通る街道のコンビニには半裸の女性を表紙に飾ったポルノ雑誌が陳列してあるのに、美術館では真剣に創作活動をする作家の作品が時に規制され、有名な写真家の写真にはモザイク補筆、映画研究家は特定の作品の正しい上映を見るためにヨーロッパまで来なければならないなんて、とても不思議です。

たとえばフランスでは、“商品としてのエロ”と“芸術としてのエロ”ははっきりと区別されており、商品としてのエロは人目につかない場所できっちり管理されますが、美術館など芸術表現を鑑賞する場では作者の意図や表現を尊重し、オリジナルの形のまま展示し自由に人々が批評や研究ができるようにします。また、元が商品として作られたものであっても、一旦芸術を語る場に持ち出されたら、それはもはや商品ではなく作品として正面から鑑賞され、芸術的・文化的な面から論じられる対象になります。

我々はこうした自由な表現と議論の場があることを当然のことだと思っていますし、もちろんセンセーショナルな作品が人々に激しく批判されることもありますが、そうした議論も含めて作品が生み出していく新たな「文化の場」があること自体を重要と考えています。

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フランス国会図書館の電子書籍で閲覧できる春画の一つ


失われる文化財

日本は社会的な「常識」や「秩序」の意識が高く、芸術はむしろそうした日常の意識を邪魔しない範囲内で活動するように制限されているのではないでしょうか。江戸時代の春画や80年代のエロティックな映画が今もまだタブー視される日本では、そうした作品を保存研究することにまでブレーキがかかることがあります。性的表現だけでなく、商品として開発されたもの、芸術として鑑賞する人が少ないもの、大多数の人が芸術とは認めないものなど、日本では展示や研究が難しいように感じます。ゲーム保存はその最たる例でしょう。

海外ではすでに文化としての保存研究がはじまっており、日本でも少しずつではありますが大学や国が動き出していますが、そもそもが「商品」として作られた背景から、商売と切り離し、純粋に文化として展示したり保存したり研究したりしてはいけない雰囲気がとても強いです。浮世絵だって、はじめは「商品」でした。いまや世界中の人が芸術作品として鑑賞するダ・ヴィンチの作品群だって「商品」として発注されて描かれたものでしたし、バッハが作曲したミサ曲は教会の依頼でミサ用に制作された「商品」です。

もしヨーロッパの人が「これは単なる商品でアートじゃない」といって破棄していたら、世界には一体何が残っていたでしょう?文化財は、文化財となってから遺したのでは遅いのです。日本は過去、多くのものを「これは芸術ではない」といって失ってきました。そろそろ、こうした流れを変えなければなりません。

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映画、団鬼六 黒薔薇夫人(1978年)日活ロマンポルノ


たとえば、エロゲー。

みなさんは今年、文化庁が主導となってメディア芸術データベースというコンシューマーゲームのデータベースが発表されたのをご存知でしょうか?これは漫画などとともにゲームも文化として認めましょう、ということで国が作ったデータベースなのですが、このデータベースにはファミコンとその他プラットフォームの多くのエロゲーに関する情報が排除されているのをご存知ですか?

私は、これまで芸術作品として受け入れられていなかったゲームを国が主導を取って芸術として扱う姿勢はすばらしいと思いますが、春画同様、性的表現を含む作品は研究保存のリストからはずすというのはおかしいと思います。日本のエロゲーというジャンルは、世界には例がない本当に特異な文化現象で、大変興味深いものです。エロゲーは海外のポルノとは異なる創意工夫の数々、ある種の日本らしさが出た非常に面白いジャンルだと思います。特に80年代のエロゲーはプラットフォームの問題があり、リアルタイムに海外に紹介はされていませんでした。独自性や創造性から考えて、今後これらエロゲーが再評価され文化的価値があるとしてヨーロッパで展覧会になってもおかしくないと思っています。

クール・ジャパンといって漫画やアニメなどの「クール」な日本の文化を海外に紹介したいのなら、ゲーム分野ではぜひ80年代エロゲーを、国を挙げて海外に紹介してほしい。しかし実際はリストから消去され、日本側が文化としてエロゲーを取り扱うことに“恥ずかしさ”を感じている様子なのです。

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ゲーム、「オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?」の表紙(1984年)


未来のために今やりましょう

たびたび、ゲーム保存協会に「まさかエロゲーの保存なんてやらないでしょう?」といった質問をいただきますが、私たちはどんな資料でも今後文化的価値が再評価される可能性があると思っていますし、多くの機関から虐げられている資料だからこそ、エロゲーの保存にも積極的です。

私はいつも言っていますが、80年代の日本のゲームは劣化消滅すれば世界の歴史から完全に消えてしまいます。80年代の国産PCはほぼ日本にしか存在せず、当時のFDは次々にカビが生えデータが消滅しています。過去それが商品として作られていたとしても、あるいはそれがエロティックな要素を含んでいたとしても、

日本にしかない希少かつ脆弱な文化資料を、日本は優先的に保存研究するべきではないでしょうか。世界を魅了する素晴らしい日本の文化をこれからもどんどん増やしていくためにも、ぜひ、エロであろうが商品であろうが文化は文化としてクールに研究保存できる本当のクール・ジャパンを作ってほしい。私も、誰よりも日本を愛する一人の市民として、ゲーム保存というフィールドで、文化大国としての日本作りに協力して行きたいと思っています。

ゲーム保存協会 ルドン

 

※パッケージ画像などの著作権は著作者に帰属します。

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21世紀のジャポニスム ――エロゲーも文化だ!(前編) ――
ゲーム保存協会の名物理事長、フランス人ジョゼフが語る本当のクール・ジャパン

ジパング伝説

ヨーロッパの人々は、古くから遥かなる東洋への強い憧れと尊敬の念を抱いてきました。ヴァカンスで日本に遊びに行くというとフランス人の友人たちは羨ましがって話を聞きたがりますし、日本人の繊細さや奥ゆかしさは時にガサツなヨーロッパ人の目にはとても新鮮で美しいものにうつります。

16世紀初頭にマルコ・ポーロが伝えた「黄金の国ジパング」の噂は、長いこと西洋人の間で語り継がれていましたが、やがて20世紀初頭のパリ万博で実際に日本の風物が紹介されるにいたって、爆発的人気となりヨーロッパ各国に大日本ブームを巻き起こします。マネやゴッホといった名だたる絵画の巨匠が目を凝らした極彩色の浮世絵、ドビュッシーらが耳を凝らした異国の旋法。19世紀末から20世紀にかけてヨーロッパの文化人らを熱狂させた浮世絵や能、歌舞伎といった日本の伝統文化伝統芸能は、21世紀の今でも多くの人々を刺激し続けており、ジャポニスムは今もまだ健在です。

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フィンセント・ファン・ゴッホ、「Amandiers en Fleurs」(1890年)


 

新しいジャポニスム「グレンダイザー」?!

さて、屏風に三味線といった日本の風物は大変に美しく魅力的ですが、日に何便もの飛行機が行き交うようになった20世紀後半、フランスにはそれまで伝えられることのなかった新たな日本文化がやってきます。そう、日本のアニメです。

僕がまだ子どもの頃のお話し、1978年にフランスで「UFOロボ  グレンダイザー」劇場版の映画上映がありました。何の因果でしょうか、日本では今ひとつヒットしなかったこのマジンガーZのシリーズ3作目がフランスでは異常にヒットしました。映画版だけでなくTVシリーズの放映もすぐに決定。フランス語吹き替え版グレンダイザーは全国のお茶の間に届けられるはこびに。当時幼稚園児だった僕も、グレンダイザーの技を大声で連呼し学校の先生に怒られるほどハマってしまいました。実際、グレンダイザーはフランス国内で今でもカルトな人気があり、劇場版主題歌はフランス語に吹き返られて135万枚の大ヒット、JASRACが海外でもっとも稼いだタイトルの一つとなりました。ちなみにフランスではグレンダイザーはGoldorakというタイトルで知られています。

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UFO ロボ グレンダイザー、フランスの劇場版のポスター


 

昭和のヒーロー次々にヨーロッパ上陸

グレンダイザーのヒットは、それだけで終わりませんでした。グレンダイザーがウケるのなら、他もウケるに違いない。次々と日本のアニメシリーズの吹き替えが作られフランスに渡ります。「キャンディ・キャンディ」に「キャプテンハーロック」など様々なシリーズが放映されました。特にハーロック人気は高く、原作の松本零士はフランスでは有名人、あのダフトパンクもインターステラ5555でコラボレーションをしています。また「太陽の子エステバン」や「宇宙伝説ユリシーズ31」など、フランスが日本にわざわざ自国での放映用に制作を依頼したタイトルも存在します。

当時日本のちびっ子を沸かせた昭和のヒーロー・ヒロイン海外進出の波はアニメだけにとどまらず、ついには「海外で受け入れられるの?!」と思うような戦隊モノまでやってきて、これも何故だかやっぱりヒットします。バイオマンは今でも会話のネタになりますし、宇宙刑事ギャバンも大人気、「宇宙からのメッセージ・銀河大戦」は「San Ku Kaï」というタイトルでもはやフランスの国民的存在です。

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太陽の子エステバン、フランス版のレコードのジャケット


 

ヒットの秘訣はガイジン目線!

マネやゴッホの20世紀ジャポニスムもフランス人が中心となってヨーロッパ各国に広がって行きましたが、いまや懐かし昭和アニメや戦隊ものといった新しいタイプの日本ブームもヨーロッパ各国に広がっていきます。一つ強調しておきたいのは、ヨーロッパへの日本の“文化輸出”の多くは、西洋人側の積極的な輸入が原動力になっていることが多い点です。日本人が「海外でヒットするだろう」といって売ってくるものではなく、所謂“ガイジン”である私たちが勝手に面白いと思って日本から引っ張ってくるというケース。

日本は今、クール・ジャパンという標語で自国文化の海外輸出に力を入れていますが、そもそも海外で何がヒットするのか一番知っているのは消費の主体“ガイジン”の側ではないでしょうか。日本人が考える「面白い日本」と海外から見た「面白い日本」は必ずしもイコールではありません。70年代以降の日本アニメ海外ヒットのラインナップを見ても、日本で人気がありヒットするだろうと見込まれた作品がヨーロッパでまったくヒットせず(ルパン三世や手塚治虫はフランスでは人気がありません)、逆に日本でまったくヒットしなかったものが海外で何故だか大人気となる例が沢山あります。

100年前のジャポニスムでも、例えば浮世絵は日本側では輸出品としての価値を当初は感じていなかったにも関わらず、ヨーロッパでは大ブームになりました。歴史は繰り返すのです。

 

 

「遺す」文化と「片付ける」文化

浮世絵からアニメまで、日本ではあまり高い価値がなかったものがヨーロッパに入ってから「日本らしさを表現するすばらしい文化」として西洋で珍重され保存されるパターンは何世紀にもわたって繰り返されています。日本で価値がないといわれ破棄されているものでも、ヨーロッパの人々は大切に保存し、アートとして次世代に遺すということがよくあります。

昭和のアニメシリーズは現在、保管場所やフィルム代節約といった様々な理由から日本のテレビ局には原版が存在しないものが沢山あり、DVD化や再放映をするためにヨーロッパから逆輸入することが度々あるそうです。使い終わったものを「片付ける」文化と、あるものは全て「遺す」ことに義務を感じる文化、これは日本と西洋の生き方の違いのような気がします。

ヨーロッパの人たちはどんなものであっても人が作り享受するものを作品として尊重し、遺すべきだと考えます。誰か一人でもそれをアートとして認めたなら、それはもう立派なアートで大切に保管すべき作品になります。たとえ全員が同じように価値を認めてなかったとしても後世のためにとっておくこと自体が大事なことです。古いフィルム、古い絵画、古い建築物、ヨーロッパには何世紀もかけて人々が残してきた文化的遺物が蓄積しており、そうした文化財は現在では観光や文化力として国のパワーになっています。

日本では古くなったものは新しいものに置き換え、多くの人が価値を認め文化として捉えない限り作品としてオリジナルを遺しておこうという動きが起こりません。価値を認めてもらえなかったものや、文化表現として受け入れられなかったものは容赦なく廃棄されることがとても多いように思います。

(後編へ続く)

ゲーム保存協会 ルドン

ゲーム保存協会 Game Preservation Society

ハードウエアの保存とエミュレーション技術について

■ご挨拶

ゲーム保存協会の堀井です。

このページをご覧の方はご存知だと思いますが、当協会は名前の通りゲームの保存、その中でもマイクロプロセッサを使ったゲームの保存にスポットを当てて活動しており、ゲームソフトだろうがゲーム機だろうがパソコンだろうが、可能な限り欠かすことなく、保存し未来に残していくことをポリシーとして、日々活動しています。

今回は、その保存する手法の一つである「エミュレーション」という技術について、お話してみようと思います。

 

■ソフトウエアとハードウエア

一部の例外※を除けば、ゲームはゲームのプログラムが書かれたアプリケーション側であるソフトウエアと、そのソフトウエアを走らせるハードウエアに分けて考えることができます。

物理的な回路で作られている部分がハードウエア、その上で動くプログラムがソフトウエアで、もし音楽に例えることが許されるなら、楽譜がソフトウエア、楽器がハードウエアに当たると思います。

 

録音技術が普及する以前、楽譜と楽器を組み合わせて残していくことで、人が音楽を伝え続けてきた様に、ゲームもソフトウエアとハードウエアを残していく事ができれば、ゲームを体験する環境そのものを未来に伝えていくことが可能になる筈です。

今回お話する「エミュレーション」という手法は楽器側、即ちハードウエアを保存していく手法の一つになります。

※最初期のゲームは回路そのものでゲームのロジックを記述していました。

 

■ハードウエアを残す手段とエミュレーション

ハードウエアの保存は、当時リリースされていた実物をメンテナンスしつつ残す方法や互換性をもったハードウエアを製作する等がありますが、後者の旧世代のハードウエアのアプリケーションを動かす仕組みを上位互換機能といいます。

MSX2でMSX1のゲームを、PlayStation2でPlayStationのゲームを遊んだりした経験がある方も多いと思いますが、新しいハードウエアの中に旧来のハードウエアと同等のものを組み込み、その部分を使って、以前のハードウエアに向けて書かれたゲームを含めたソフトウエアを動作させる手法で、これらがハードウエアによる上位互換という仕組みです。

対して、エミュレーションというのは、ハードウエアの構造をソフトウエアとして記述し再現する技術です。

近年ではハードウエアの仮想化などという言葉で耳にした方も多いかもしれませんし、ゲーム機に於いてもハードウエアによる上位互換機能ではなく、エミュレーションソフトウエアによるソフトウエアでの上位互換機能を実現している事例もある様です。

 

■エミュレーションという技術について

エミュレーションという技術は、簡単にいえばターゲットマシンのハードウエアの機能をソフトウエア化して代替する手法です。

ターゲットマシンに搭載されているプロセッサ周り、画像表示や音源、各種I/O等をソフトウエア化し、ターゲットマシン上で動いている筈のアプリケーションソフトがターゲットマシンに対して行う各種アクセスをエミュレーションソフトウエア側で受け取り、適切な処理を返し、あたかも実際のターゲットマシンがその場にあるかのような振る舞いをします。

また、エミュレーションソフトウエアの場合、ターゲットマシンのソフトウエアを何かしらの方法でハードディスク等の別のメディアに移して実行される事が多いですが、通常ターゲットマシンの挙動を可能な限り厳密に再現する実装を行うので、エミュレーターを実行しているマシンに、USB等を使った何らかの形でFDDやROMスロット等のデバイスを装着した場合、ターゲットマシンの実ゲームソフトを直接実行する様に作る事も可能です。

 

■可能になること、ならないこと

実機を維持できる事が理想ではありますが、部品調達等の事情で維持が困難になった場合の次善の案として、エミュレーションによる代替環境の構築は大きな選択肢になるだろうと私は考えています。

更にソフトウエアで構築されているので、移植作業という手間こそ伴うものの、未来のハードウエアで動かす事も現実的です。エミュレーションソフトを移植せずとも、動いていたハードウエアを未来のハードウエア上でエミュレーションすれば、多段重ねのエミュレーションで同じ結果を得る事も理論上可能です。

ですが、この手法で万全かと言われるとそうではなく、実機と全く同じ挙動をするエミュレーションソフトウエアを作ろうした場合、実機に搭載されている数々のデバイスの詳細な仕様書や回路図はもちろんのこと、実機と照らし合わせたそれらの資料についての検証も必要になり、万全と思えるところに至るには膨大な作業を必要とします。

その上、ある程度の再現を目指してエミュレーションソフトウエアを書く場合でも大雑把に実機のパフォーマンスに比して10倍程度の演算資源が必要となります。

また、エミュレーション環境を整えることができたとしても、アウトプットの環境は常に変わっていきます。大きなところでいえば、ここ10年でブラウン管のモニターは激減しましたし、液晶パネルの質も大きく向上しました。

ブラウン管へのアナログ入力による滲みを前提に表現された絵や、液晶パネルの反応速度の遅さを逆手にとった表現を、今日、目にすることは容易ではありません。

駆け足ではありますが、以上がエミュレーションという手法の枠組みになります。

私は、エミュレーションという技術のこれらメリットデメリットを踏まえても、日々台数が失われていく一方のハードウエアの保存という目的に対しては、恩恵の方が断然大きいと考えています。

 

■最後に

つらつらと勢いにまかせて書いてみましたが、如何でしたでしょうか?

年間を通して公私の区別なく日々エミュレーション技術に触れている私ですが、実機そのものの維持ではない仮想化という手法でハードウエアを保存するにしても、ハードウエアを構成する膨大な資料をしっかり集めて検証していかない事には仮想化でハードウエアを残すことすらままならないという、なんとも当たり前で大きな課題に戦慄する毎日を送っています。

特にアーケードゲーム機や家庭用ゲーム機のハードウエアは、汎用部品ではなく、それぞれ固有のデバイスを設計し、それらを組み合わせて作られている事も多く、調査や資料の収集は一筋縄ではいきません。

高い山ではありますが、少しずつでも調査収集を進めていきたいと思っています。

ハードウエアを修理するにしても、エミュレーションソフトウエアを書くにしても、足場固めを避けて通る訳にはいかないのですから。

今後とも皆さんのご支援ご助力をいただければ嬉しいです。

ゲーム保存協会 堀井