Falcom Donation

ファルコム黄金期の歴史的資料を寄贈いただきました

日本マイコンブーム時代から現在まで、良質なゲームを作り続ける老舗メーカーの日本ファルコム株式会社様。このたび、80年代のPCゲーム黄金期にファルコム社内で活躍したというユーザーサポート用フロッピーディスクのデットストック一式を寄贈いただきました。
 

受け取った宝箱を開ける

丁寧な梱包を掘り出す

当協会に今回寄贈されたディスクは、今年発売から30周年を迎えるイースをはじめとしたフロッピー計262枚。これらのディスクは、ゲームを買ったユーザーが初期不良やバグなどの問題でゲームを通常通りに遊べなかった際、交換に配られたものです。つまりどのタイトルも全ての問題を修正した最終版データが記録されています。また、交換用の新品ですから、全てユーザーによるデータのセーブがない書き込みなしの状態です。
 

交換用の初期のイースのディスクたち

貴重な資料で緊張感が高まる

日本ファルコム株式会社様といえば、魅力的なゲームを作っているだけでなく、そうした社内の歴史も大切にしているというイメージがありますが、今回寄贈いただいたディスクも、社内できちんと保管されていたことが伝わってくる大変良好な状態です。日本のゲーム史を盛り上げてきたファルコムの貴重な歴史資料として、262枚のディスクたちは今後、ゲーム保存協会のアーカイブ室の中で長期保存されます。
 

円盤の表面のカビ状態をチェック

5.25インチ専用の保存容器

当協会のアーカイブ室は温度と湿度を365日管理し、日光や磁気など資料を痛める危険性のあるものを排除した専門ルームです。資料の劣化を抑えるために株式会社資料保存器材様と開発したフロッピーディスク専用保存容器の中に資料を移し、次世代に伝えて行けるよう現物を保管します。さらに、劣化によるデータの完全消失を防ぐため、専用機器を使いフロッピーの中身をデジタル化。2段階の保存作業で資料の消滅を防ぎます。
 

一枚一枚をQRコードでDBに登録する

媒体専用アーカイブ室の様子

今回の寄贈は、私たちにとってとても意味のあることです。ゲームを作る側である日本ファルコム株式会社様からの当協会の活動に対する信頼にしっかり答えていけるよう、これからも1日でも長く、そして1つでも多くの歴史資料を保存していきたいと思います。
 
アーカイブ室は現在、一般公開に向けての準備中です。ゲームの歴史を学ぶ研究者や、次世代のクリエイターのために活きたアーカイブを目指し全力で活動していますが、まだまだ準備にかかる人や物資が足りない状況です。1万点以上の80~90年代PCゲームソフトを保管するアーカイブ室、一般公開を実現するには皆さんからのご支援ご協力が必要です。ぜひ活動にご参加ください。
 
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ゲーム保存協会 ルドン
 
撮影 ニコラ・ダティッシュ(Nicolas DATICHE

Demons Ring Gamepres

マイコンという魔力に魂を引かれた中学生

ご挨拶

ゲーム保存協会の肥田と申します。

私が記事に書くにあたり、何をテーマに書こうかと考えました。私はコレクターではないのでソフトはほとんど持っていません。
さらにハードの知識は皆無ですし、プログラムの知識もほとんどありません。しかしゲームは後世に残していきたい…とムシのいい事を考えており、ゲーム保存協会に所属しています。

では、私に何が出来るのか…色々と考えてみました。
辿り着いたのは当時の記憶、経験です(この記事をお読みになっている方々から、「経験ならば俺にもあるよ!」と突っ込みの声が聞こえてきました…が無視します(笑))。

問題は私個人の経験を「保存」する意味があるのか?という点ですが、それは置いておいて勝手に話を進めますと(^^;、私はマイコンが登場してからずっとこの世界に没頭してきました。
特にマイコン、パソコンのゲームは中学生の頃から遊んでいました。中学1年生のときにPC-1211というシャープのポケットコンピュータを購入したのが最初でした。
その後、私が都立高校に合格したときに、親に頼み込んでPC8801mkIIを購入してもらいました。当時モニター込で30万円近くです。
今考えると、「私の親はそこそこお金があったんだな」と感心し、感謝しています…。
しかしその親の恩をアダで返すように、その後の高校3年間は、大学受験の勉強もせずにPC8801シリーズのゲームに没頭していました。典型的な親不孝者のパターンです。

当時、お小遣いが少ない都内の学生が、どのようにマイコン、パソコンのゲームを楽しんでいたか?

私の経験談は、当時のパソコンゲーマーの実態の保存(というのはかなり大袈裟ですが)になるのでは…と勝手に考えました。
理事長のルドン・ジョゼフの冷ややかな視線を感じつつも、記録していきたいと思います。


思い起こせば…

さて、いきなり難しい話をするのも何ですので、まずは誰でもが知っているゲームの話をしましょう。
日本ファルコムから1984年に発売された「デーモンズリング」です。
日本国民の7割が知っていると総務省統計局から発表があったように思います…が記憶違いかもしれません。

デーモンズリングのタイトル画面。炎がメラメラとアニメーションする。

デーモンズリングのタイトル画面。炎がメラメラとアニメーションする。

 

 

私は1984年の3月にPC8801mkIIを購入しました(中学3年生のときで、高校に合格した後すぐに親にせがみました)。

PC8801mkII自体を購入するときも、色々とアクシデントがあったのですが、それは別の機会があれば書くとして、1984年の初頭、秋葉原のマイコンショップの店頭では「デーモンズリング」が至る所でデモンストレーションされていました。
とあるマイコンショップでは、「デーモンズリング」の横に正式なポップか手書きかは忘れましたが、

「驚異の瞬間画面表示!」という文字がデカく書かれていた記憶があります。

「驚異の画面瞬間表示!」というのが何を言っているのか分からない方が(国民の3割は)いらっしゃると思うので、念のため説明します。

当時のマイコンは、描画はライン(線)とペイント(塗りつぶし)で行われていました。
分かりやすく説明すると、例えば「バナナ」を描くときに、まず「バナナ」の輪郭を「線」で書きます。その後、輪郭の中を黄色で「塗りつぶし」ます。
描画のスピードはプログラムによってまちまちですが、「バナナ」の例で考えると、輪郭を描くのに5秒、黄色く塗るのに3秒、そんな感じです。
マイコンが必死に「バナナ」を描画しているのを私は眺めているわけです。「バナナ」ならばまだ良いですが、複雑な絵、例えば「自動車」や「城」を描こうとすると1分や2分はザラに待たされます。
マイコン机の前に、コーヒーとケーキを用意しておくとベターな時代ですね。
現在のスマホユーザーからは、「その激遅な描画と待ち時間は何?バカじゃなの?!」という声があがりそうです。

しかし当時は、必死で絵を描いているマイコンに対して、一つ一つ丁寧に描かれる輪郭に愛着を感じ、ペイントされる独特の色合いに魅了され、どのような画像が完成するか想像をかき立てられながら、暖かい目で見守っていたのです。
決して「何をチンタラ描いているんだ!」と不届きなことを心の中で叫んだことは一度たりともありません……(おそらく、ないと記憶しています…)。
(よく考えると私も当時は相当に心の広い青年でした。もしいま、同じようなライン&ペイントのスマホゲームがあったら即アンインストールします)。

「驚異の瞬間画面表示!」に話を戻します。
秋葉原のショップでデモされていた「デーモンズリング」は、店頭デモ用のものだったと記憶しています。高速で描画される黒色/水色の2色で表現された不気味迷路シーン、メラメラと炎がアニメーションするオープニング、魔王、彫刻、ワニ男…次々とダークファンタジーな世界が表示され、秋葉原のマイコンショップを通りかかる人たちは、一瞬歩を止めてしまうほどでした。

デーモンズリングのデモ画面に次々に表示される世界。現在では珍しくない絵だが、当時はまだダークファンタジーの世界観が浸透しておらず、禍々しいオーラを放っていた。

デーモンズリングのデモ画面に次々に表示される世界。現在では珍しくない絵だが、当時はまだダークファンタジーの世界観が浸透しておらず、禍々しいオーラを放っていた。

 

 

かくいう私もその中の1人で、「デーモンズリング」という重力に魂を奪われました。
「魔王」の画像が表示されたかと思うと、それが消えて真っ暗になり、3秒ほどすると今度は「ガイコツ」の絵が瞬く間に表示されます。
純情な中学生の私は心の中で呟きました…。
(「凄い、一瞬で絵が表示されるなんて! 今までチマチマと描いていた絵はなんだったんだろう…でもこんなに速く表示されたら、ゆっくりとコーヒーとケーキを食べる時間がないじゃないか…」)。

当時まだ珍しかった「アドベンチャーゲーム」という響き、「瞬間画面表示」の技術、オカルトチックな美しい「グラフィック」が3重奏をかなでます。
特に「ワニ男」の不気味さは、まだ中学3年生の純情だった私(何回も言うとウソっぽくなるので、これで最後にしておきます)の脳裏にトラウマのようにこびり付き、夜な夜なトイレに行くのが怖くなりました。

当時一番印象に残ったワニ男の場面。 いま部屋にコイツが入ってきたら、どうしようかと思います。

当時一番印象に残ったワニ男の場面。
いま部屋にコイツが入ってきたら、どうしようかと思います。

 

 

雑誌の広告を毎日眺め、秋葉原のショップでデモ画面を見るたびに私の心は、「デーモンズリングをやりたい」という衝動に駆られました。
私はなんとか8,700円という高額なソフトを購入する算段をつけなくてはならなくなりました。
もちろん中学3年生の私には、8,700円の高額なお小遣いはありません。しかもPC8801mkIIを購入したときに、親に「高校では勉強をがんばるから」と約束をして「ドアドア」(3,800円)や「鍵穴殺人事件(8,000円くらいでした)」を購入してもらった後でした。
とはいえ、PC8801mkIIは「デーモンズリング」がなければタダの箱という極論にまで精神が達しておりましたので、ここはまた親を頼るしかありません。
「オヤ セットクスル」というコマンドがあれば入力したのですが、どのみち「デキマセン」という回答が返ってきそうです。
色々と考えた末、「もっと勉強をがんばるから」という単純な約束をしたところ、意外とあっさりと「デーモンズリング」の代金8,700円を出してもらえることになりました(いま考えると、つくづくロクでもない息子です)。


そしてお金を握りしめて秋葉原へ…。

「デーモンズリング」が発売された直後に、秋葉原の若松通商で購入したと記憶しています。
お店で購入しようしたときに、肝心のソフトパッケージが分からずに探した記憶があります。
広告やデモ画面は良く目にしていたのですが、パッケージは見たことがありませんでした。
もしかするとお店のデモ画面はまだ発売前の宣伝だったのかもしれません。
お店で「デーモングリング」のパッケージを手にとり、その場で間違いがないかパッケージを食い入るように見つめました。
緑色のパッケージに恐ろしい魔王が描かれています。当時西洋ファンタジーにまだ免疫がなかった私は、ここでもあまりの気味の悪さに背筋が凍りました(ありとあらゆる事に免疫力がない、初々しい青年時代でした)。とはいえ、この絵はインパクトがあったのです。

デーモンズリングのパッケージ。 絵に魂がこもっており、今にも魔王が飛び出してきそうです。

デーモンズリングのパッケージ。
絵に魂がこもっており、今にも魔王が飛び出してきそうです。

 

 

当時の日本ファルコムはパッケージデザインにウエイトを置いていたようです。
後から分かったことですが、日本ファルコム(コンピュータランド立川)は元々AppleIIのソフトを豊富に扱っていたそうです。つまり日本では軽視されていた「パッケージの重要性」を自然と認識していたのでしょう。
当時のマイコンのゲームはグラフィックが貧弱であったため、パッケージで想像力をかき立てるのは商法として非常に有効だったのです(パッケージと実際のゲーム画面があまりにかけ離れていた作品が多数ありました。ゲームをプレーして「騙された」と分かっても、当時は黙って唇を噛み締めるしかありませんでした…)。
ちなみに私の知り合いは、日本ファルコムの「ぱのらま島」のパッケージに描かれていた金髪の美女に魅了されて購入しました。もちろん、その金髪の美女がゲームに全く登場しないので、ティーカップを叩きつけていたのは言うまでもありません。


いよいよ開封、そして起動

「デーモンズリング」をようやく入手し、自宅のPC8801mkIIの前に座りました。
そして胸を躍らせながら箱を開けてマニュアルを取りだしました。
本当は帰りの山手線の中で、パッケージを開封しようかと思ったのですが、あの「魔王」の不気味な絵を隣の人に見られると思うと恥ずかしくて、できませんでした。
さて、マニュアルもなにやらオカルトチックなことが書かれています。

「冒険を始める時には、このマニュアルの裏側に描かれている魔法のシンボルを切り取るなどして、肌身離さず持っていてください」
「コピーを取ろうとした瞬間、ディスケットに封じ込められた極度の怒りと憎しみに満ちた悪霊たちが、それらを解き放った者に対して襲い掛かってくることに間違いありません」

いま読むと「そんなアホな…」「よほどコピーを取られたくなかったんだろうな」と思いますが、私は「マジで魔王をここに封印しているんじゃないの?!」とビビリました(完全に日本ファルコムの手のひらで踊らされていますね…)。

さらにマニュアルには設定が何ページにも渡って記載されています。「魔王サローン」や「息子デュムリン」や「神メントウサ」がどうのこうの…。
“賢者”や”魔王”と言われても、当時はまだ馴染みが薄く、さらに西洋オンチの私には具体的なイメージが沸かず、実はチンプンカンプンでした。
(いまでこそ剣と魔法の世界は当たり前ですが、1980年代前半に剣と魔法の世界(D&Dなど)を知っている日本人は、よほどのサブカル好きか、オカルト研究会の人だけでした(と全国オカルトNPO法人から統計が出ていた…かと思われます)。
マニュアルは全く理解不能でしたので、速くゲームをプレーしようとフロッピーディスクを取り出してドライブに丁寧に挿入します。
ガチッガチッというディスクのアクセス音が数回続いた後、秋葉原のマイコンショップでデモンストレーションされていたあの”迷路”がカタカタと動き出します。
そしてメラメラとした炎のタイトル画面。感動と至福の瞬間、「わが生涯に一片の悔いなし!」という状態でした(この満足感は、大人になってしまった私には(脳が老化している)、もう二度とないでしょう)。

ゲームを起動すると最初に表示されるアニメーションのような迷路シーン。 実はこの迷路の地図を書きながらチマチマ進むことになるとは、この時はまだ知る由もありませんでした。

ゲームを起動すると最初に表示されるアニメーションのような迷路シーン。
実はこの迷路の地図を書きながらチマチマ進むことになるとは、この時はまだ知る由もありませんでした。

 

 


クリアまでの果てしない道程

ゲームは”古びた家”の前からスタートします。すでに他のアドベンチャーゲームを経験していた私は、「ミル」「トル」「シラベル」の三種の神器コマンドはすでに把握していました。
ゲーム画面に表示される”古びた家”の前にある手紙を読んで(「テガミ トル」「テガミ ヨム」というコマンドをキーボードから直接入力する)進めていきます。
「デーモンズリング」は瞬間画面表示もさることながら、一つ一つのグラフィックが当時としてトップレベルの美しさでした。
西洋風の神秘的な絵も私にとって初体験です。当時、オカルト研究会の人しか知らなかった(と思われる)ダークファンタジーの世界観も、画面上に視覚化されているために世界に容易に入り込めます(日本ファルコムのグラフィックの勝利ですね…文字だけなら分かりません)。
移動するたびに「おおっ」と歓声をあげ、心臓がどんどん高鳴ります。
まるで自分が異世界に飛ばされたような錯覚を起こさせるのです。
自腹で購入したゲームという色眼鏡をかけているかもしれませんが、グラフィックだけでドキドキするゲームは、エロゲームを除いてはあまりなかった記憶しています…。

古びた家のシーンからゲームがスタートする。 ポストから手紙を取って読むと、冒険の始まり。

古びた家のシーンからゲームがスタートする。
ポストから手紙を取って読むと、冒険の始まり。

 

 

肝心のゲーム内容ですが、プレーして数分後、狼の群れが突然目の前に現れ、あっという間に喉ぶえを噛み切られて死亡しました。
その後も歩いていると魔王の彫刻に睨み殺されたり、断崖が崩れて死亡したり、ワニ男に集団で襲われたりと、何度殺されたか分かりません。
悪戦苦闘の日々が続きました(まさにデーモン(悪魔の難易度)との戦いでした)。最後までクリアしたのは、高校2年生のときだと思います(約2年の長丁場でした)。
クリアしたといっても、ゲームエイドという怪しいメーカーが発売していた「ヒント&お答え集」を見ながらクリアしました(解答本を購入するのは、ゲームに対して負けを認めるようで嫌だったのですが、仕方なく買いました…)。
「デーモンズリングの難易度は比較的低い」と書かれているのをインターネットで見たことがあるのですが、クリアされた方は相当に頭が良いか、勘が鋭い方なのではないかと思います。私にはノーヒントでクリアすることは到底ムリでした。

当時購入したヒント&お答え集。 500円くらいで通販していました。

当時購入したヒント&お答え集。
500円くらいで通販していました。

 

 

どうして2年間も「デーモンズリング」をクリアできなかったのか。それは時代背景と、ゲームのべらぼうな難易度です。

まず、インターネットという便利な環境はありません。「デーモンズリング」という言葉を検索したり、ツイートすると誰かが返信してくれる時代ではありません。
同じ学校の友達の情報以外、何もヒントはありませんでした。雑誌ではゲームの紹介はするものの、攻略やヒントを掲載していたものは皆無です。
数か月してからこのゲームがコピーできることを知り、高校の友達(同じ高校でPC8801を所有していた仲間)もちゃっかりプレーしていましたが、結局誰も自力でクリアできませんでした。

また、「デーモンズリング」ほど、あっさりと主人公がお亡くなりになるゲームはなかなか見当たりません(主人公デュムリンの危機回避能力はほぼゼロです…とはいえ「主人公=私」なので、私に危機回避能力が無いのですが…)。
ゲームオーバーになると、ご丁寧にデュムリンのお墓とともに「スペースキーを押すとあなたは再びDemonsRingの世界に戻ることが出来ます」と表示されます。
(私はスペースキーを何度も押しましたが、今振り返ってみると、単なる自殺志願者としか思えません)

また、先に記述した迷路が凶悪です。
物語の後半に最初のデモンストレーンで表示されていた青色と黒色の迷路が、モノクロ版になって登場します。

物語後半の凶悪な迷路。

物語後半の凶悪な迷路。

 

 

迷路の出口に「鍵」が置いてあり、「鍵」を取らないとゲームはクリアできません。つまり、迷路を脱出することがクリアの絶対条件です。

私がデーモンズリングに求めていたものは、「心躍る美しい画面が次々に展開されるデーモンズリング」でした。何が悲しくて、延々と寂れた迷路を進まなければならないのでしょう。
さらにこの迷路はハンパなく広大で、方眼紙のマスで、タテ30×ヨコ20あります。私は方眼紙に迷路の地図を書いていたのですが、いくら進めども出口らしきところがありません。
また、ずっと歩いていると疲れて死んでしまいます(主人公が虚弱すぎます…)。このときはさすがに口をあんぐり開けて、そのまま意気消沈しました。
もっと驚いたのは、最短距離で出口に直行すると「地図を書いたあなたは立派です。しかしそうは簡単にこの迷路を出ることはできません。」と表示されて出られません(迷路の中でわざわざ「キタ」「ミナミ」等のコマンドを110回以上入力する必要があります…。前向きに解釈すると、8,700円もするゲームを長く遊んでほしいという制作サイドの好意なのでしょうが、「立派だ」と褒めるくらいならば早く脱出させて欲しいです)。
私はしばらく迷路のマップを方眼紙に書いていましたが、「実はこの迷路はゲームに関係ないのでは?」と思って地図を書くのを放棄しました。この時点でクリアは不可能となりました。

迷路のマップ。これはゲームエイドというメーカーが発売していた ヒント&お答え集の一部から抜粋しました。

迷路のマップ。これはゲームエイドというメーカーが発売していた
ヒント&お答え集の一部から抜粋しました。

 


おわりに

長々と書いてきましたが、私にとって「デーモンズリング」は出会ってからクリアするまでに、色々な感情を抱かせてくれたゲームソフトでした。

・初めて画面を見た時に心が踊り…。
・購入するときは心臓が高鳴り…。
・ゲームを起動したときに、画面の美しさに感嘆の声をあげ…。
・ゲームが解けてなくて、苦悩で顔が歪みはじめ…。
・最後にヒント集を購入してクリアしたときは、ようやく「悪魔」という重力から魂が解放された安堵感が…。

そんな思い出が詰まったゲームソフトです。

それらすべてをひっくるめて「私のデーモンズリング」という記憶/記録になります。
1980年代の数年間だけ大流行したコマンド入力型アドベンチャーゲームは、私の青春マイコン時代の中で、燦然と輝く経験であったことを、記事を書きながら改めて思いました(それが良かったことなのか、考えると落ち込みそうなので考えないようにします…(^^;))。
また、当時高校生で一緒に「デーモンズリング」を解いていた仲間たちのことを思い出しました。もし旧友と会う機会があれば、ビールでも飲みながら当時の思い出を語り合いたいものです。

ゲーム保存協会 肥田

PC Engine

PCエンジンにまつわる当事者の想いを保存する

ゲームのすべてを残す

皆さんはゲーム保存というと何をイメージしますか?

天井まで積まれた膨大なゲームのコレクションをイメージする方は多いと思いますし、以前は私もその一人でした。

もしもゲーム保存がこれぞというゲームをコレクションすることであるなら、そのゲームはいったいどのような基準で選ばれるべきなのでしょうか?

ゲーム保存協会の理事長であるジョゼフさんと知り合った当初、「後世に残すべきゲームとそうでないゲームは誰がどのように区別するのか?」と質問したのですが、彼の答えは私の目を大きく見開かせるものでした。

「すべてのゲームを残します。今の時代に価値が無いと思われたゲームが後世に価値を見出されるかもしれないから。同じ理由で、ゲームだけでなく、パッケージやマニュアル、当時遊んだ人のテクニックや記憶もすべてがゲーム保存の対象なのです。」

すべてのゲームを残す・・・ゲームのすべてを残す・・・。

途方も無いことのように思えました。

しかし、だからこそ一人の力で完遂することはできず大勢の力が必要なのだと。

特別なコレクションやスキルが無い私にも何かできることがあるのではないかと思い、私はNPOゲーム保存協会に加わったのです。

 

会社の大先輩がPCエンジンを企画していた!

ところで、私には長年温めていたひそかな願いがありました。

それはかつてNECホームエレクトロニクスでPCエンジンの企画に携わった会社の大先輩に当時のお話を伺うこと。

その方がかつてPCエンジンと関わりがあると知ったのは私が入社して間もない頃でした。しかし私にはインタビューをまとめたり、ライターとして文章を発表した経験が無かったこともあり何もせず20年近い月日が流れていたのです。

ジョゼフさんの答えと、私の長年の願いが結びつきました。

当時のお話を伺い記録することもまた、ゲーム保存活動だったのです。

先日その大先輩が引退となり盛大な送別会が催されたその席で私はついに、PCエンジンについてお話をお伺いしたいと申し出て快く承諾を頂くことができたのでした。

インタビューで特にお伺いしたいと考えたのは、NEC側から見たPCエンジンの企画についてです。私の知る限り、世に出ている記事はどちらかと言えばハドソンによる技術寄りの話が多いと感じていましたので、今回はその穴を埋めたいと考えました。

大先輩は実名を出すことは控えて欲しいとのことでしたので、この記事ではK氏と表現させてもらいます。

午後から雨模様という2015年の肌寒い晩秋の日、渋谷にてお会いしました。

以下、インタビューの結果を記します。


 

■パソコン、ゲームとの関わり

沼: パソコンやゲームには学生時代から興味があったのでしょうか?

K氏: 当時はNECのアルバイトでデモソフトのプログラムを書いたりプログラマー向けのテクニカルな解説書を執筆したりしていたから、大学卒業後は、その流れでNECに入社、パソコン事業担当部門に配属されたんだ。

高校時代からコンピュータに興味を持ち、日本だけでなく海外のパソコン雑誌も読み漁り、大学に入ってからは、アマチュア無線とコンピュータを扱う研究会に所属。入学して間もなく、NECからPC-8001が発売されるとすぐに買ってしまったという。

沼: ちょうどパソコンが立ち上がる時期ですね。

K氏: でもパソコン黎明期を立ち上げたさらに上の先輩方の世代から3~4年・・・一世代遅れたんだよね。

沼: ゲームには興味ありましたか?アーケードなどはいかがですか?

K氏: インベーダーゲームなど、よくゲームセンターに通っていたよ。お金がかかってしかたがないから、PC-8001を買ってからはブロック崩しや麻雀ゲームなど、自分でゲームを作って楽しんでいたよ。

 

■入社 ~ PCエンジンの企画前夜

沼: NECに入社してからはどのような業務をされていましたか?

K氏: 入社は旧パソコン事業部。装置側を作りたくて。3rdパーティーと相談して、次はどんなアーキテクチャにしようか、音が弱いから強化しようとか、そういう話をしていたよ。

沼: スプライトの強化はどのようにお考えでしたか?

K氏: コストとLSIの関係でスプライトは積まなかったけど、16ビットパソコンになったPC-88VAのときはガリガリのスプライトアーキテクチャだったね。

沼: ファミコンは遊びましたか?

K氏: 発売されて会社ですぐに買って試してみたね。コンピュータって名前がついていたからね(笑)。もちろん自分でも買ったよ。

1年の半年は商品企画、残りの半年はシステム周りのプログラムを書くといった業務サイクルだったそうだ。転機は入社3年目の1985年。個人用パソコン部門がNECホームエレクトロニクスにまとまりK氏は出向。パーソナルインテリジェンス事業部の配属となる。

NECグループ内で個人向け製品はNECホームエレクトロニクスの分担だから家庭用ゲーム機をやるには動きやすい状況になった、というK氏。1985年はスーパーマリオもでてゲーム市場が温まってきた頃でもあったという。

K氏: これはまだあまり記事になっていない話だと思うけれど、この年、旧NEC本社ビルの一室を借りてゲーム機事業参入のタスクフォースが結成されたんだ。セールスの人と自分と、あと二人。4人のメンバーで3ヶ月ほどゲーム機事業参入の検討をしていた。

ファミコンは何で成功したのか?何が足りないのか?ビジネスモデル含めてリサーチした。

午前中はスーパーマリオを遊んで(笑)、午後はソフト会社をまわってヒアリングしてシナリオを考えた。ファミコンを超えるゲーム機はどうあるべきか、NECとして発揮できるコアコンピタンス(強み)は何かと。

結論は、まずビジネスモデルはパソコンの延長ではダメだということ。ソフト会社を囲い込んでロイヤリティビジネスにする必要がある。

あとはファミコンと比べて一目で違いがわかる表現力が大事で具体的には画像とサウンド。CD-ROMはNECホームエレクトロニクスが立ち上げていたからこれを使おうと。

沼: 1985年の時点でCD-ROMが挙げられていて驚きました。ゲーム機事業参入はその後すぐに動き出したのでしょうか?

K氏: 我々は装置屋さんでゲーム機を作るには当時で言うプロセッサー屋さんとソフトウェア屋さんとの協業が必要だから、タスクフォース解散後は上層部が1年ほどパートナーを探していたよ。

たまたまハドソンも同じようなことをやっていて、ハドソン、セイコーエプソンと組むことになった。パートナーがみつかったからやろう、ということでまた検討に加わることになった。

ハドソンはファミコンのソフトを作っていたからファミコンを知り尽くしていた。
そこに我々のCD-ROMを加えようということ。

CoreGrafx 2

■PCエンジンの企画と開発

沼: そもそもですが、PCエンジンという名前の由来をお聞きしてよろしいでしょうか?エンジンはコア構想のエンジンという意味だと以前何かの記事で読みましたが、PCはやはりNECらしくパソコンのPCなのでしょうか?

K氏: PCはパーソナルコンピューティングの意味で、ゲームだけでなくリビングで幅広く活用してもらいたいという意図があった。

沼: PCエンジンは特にアーケードの移植に強いマシンというイメージがありました。この点は意識されていましたか?

K氏: アーケードというよりもNECがこだわったのはCD-ROM。ファミコンと一目で明らかに違うレベルの表現力を、コストの枠内でどう実現するか。

沼: セガのメガドライブが当時のアーケードアーキテクチャをベースにしていたのと比べるとPCエンジンはユニークでしたね。

K氏: アーケードは高価なメモリをじゃぶじゃぶ使うけれど、家庭用でそれをやったら価格が跳ね上がってしまう。スプライトなどのアーキテクチャはハドソン側が決めたけれど、彼らなりの知見で当時ベストな設計をしたと思う。

沼: 当時、定価24,800円はファミコンよりも高めの値段に思いました。

K氏: 24,800円ではハードの儲けは無かったね。ソフトウェアのロイヤリティ収入があったからなんとか価格を下げられたけど、もしハード単体で開発費も回収しようと思ったら、おそらく5万円とか7万円になってしまっただろう。

CoreGrafx 1

■PCエンジン発売後 : ハードウェア

沼: PCエンジンといえば、いろいろな本体のバリエーションが特徴的でした。例えばスーパーグラフィックスなどはメガドライブやスーパーファミコンを意識されたのですか?

K氏: バリエーションを用意したのは、ただ単にグレードを松竹梅で用意しようというNECらしい発想の結果であって、他社のゲーム機のSPECはあまり意識していなかったな。

沼: PCエンジンを内蔵したシャープのX1ツインなどは、なぜNECのパソコンで内蔵しないんだろうと思いました。

K氏: パソコンに内蔵するとマザーボードを複数開発する必要があり手間がかかるから、そのかわりPCエンジンを内蔵したパソコン用モニタを開発してこれ1台でカバーしようと考えた。X1ツインとは住み分けできていたんじゃないかな。

沼: LDロムロムも変り種として印象深いです。パイオニアの製品ですけどNECホームエレクトロニクスからも出ていたそうで当時はどのようなスタンスでしたか?

K氏: LDロムロムの発売は自分が離れた後だったけれど、当時はやれることは何でもやろう、ポストファミコンだと、いけいけドンドンだったよ。

沼: PCエンジンの事業で、特に盛り上がった印象に残る時期はありますか?

K氏: うーん。特にいつが盛り上がったというより、じわじわとずっと右肩上がりが続いていた印象かな。PCエンジンの雑誌がいくつも創刊されて、テレビでも露出が増えて・・・と。

沼: 熱いですね。

K氏: 業務の2割だけどね(笑) 本業はパソコン。

沼: 2割でそれだけ濃密なのはうらやましいです(笑)

ゲーム機の企画は業務の2~3割で本業はパソコンと言うK氏は、当時PC-88VAを企画し同機のBASICインタープリタを書いていた。PC-88VAは知る人ぞ知るスプライトを搭載した16bit機であり、まさにゲームのためのパソコンである。

沼: 自社でゲーム機をやってよかったと思いますか?

K氏: もともとパソコンをゲームマシンとして仕立て上げてきた歴史があるからね。PC-8801mkIISRのときはガリガリにゲームを意識したよ。

沼: PCエンジンもその系譜なのですね。

 

■PCエンジン発売後 : ソフトウェア

当然のことだがソフトウェアは核心的要素である。ハドソンがついていたとはいえ、ソフトウェアを社外に丸投げはできないとNECグループでNECアベニューを設立するなどの手を打った。そしてキーとなるメーカーとしてコナミの名前も挙がった。

沼: 私は当時メガドライブ派だったのですが、コナミがグラディウスなどのキラーソフトをPCエンジンにばかり投入したのが悔しくてたまりませんでした(笑)

K氏: コナミ参入はハドソンルートだった。ハドソンとコナミは当時から関係が深かったから。当時はサードパーティにランクがあって、コナミはサードパーティの中では契約条件などが特に優遇されていたね。

沼: PCエンジンではスペースハリアーなどセガの看板タイトルが発売されました。

K氏: 自社ブランドで出すリスクをとれないとか、オトナの事情で出せないとかの場合は、アベニューが受け口になっていたね。

 

■PCエンジンの収束

市場の一角を占めるに至ったPCエンジンだが、時代は次世代機へと移ろうとしていた。K氏は1991年、PCエンジンの完成形だというCD-ROM内蔵のPCエンジンDuoを担当し、その後のシナリオをまとめてからNEC本社に復帰した。

一方のパソコンもPC-88VA以降の16bitはNEC本社のPC-9801に集約する方針が固まったため、PC-98DOを企画して社内の88のリソースを統合する道筋をつけた。

沼: コア構想には様々な可能性があったと思います。何かやり残したと思うことはありますか?

K氏: PCエンジンは家庭向け端末としての広がりの可能性を示すことができたと思うが、当時は他に通信もやりたかった。例えるなら任天堂のWiiのようなリビングルームで通信も融合したマシンかな。

ちょうどパソコン通信からインターネットに切り替わる時期にあたってしまいタイミングが悪かった。テレビに向かってネットをする、コミュニケーションするというにはまだ少し早かったね。

沼: たらればの話ですが、PCエンジンが海外でもっと成功していればビジネス判断として次世代機を続けられましたか?

K氏: 次世代機ができなかったのは単純に、ゲームソフト会社をひきつける、ゲーム機に適した3Dアーキテクチャを開発環境も含めて提案できなかったからに尽きる。パソコン用の3Dをそのままもってきてもダメ。

そういうパートナーと組む必要があったが見出せなかった。アライアンスはただ組めばよいというものではなく、PCエンジンのときのCD-ROMに相当する武器がこのときは無かった。

 

■PCエンジンとは : 総括

沼: PCエンジンを総括するなら、どのように言うことができますか?

K氏: うーん。どういう観点で言うか難しいけれど。少なくとも、あれがあったからNECホームエレクトロニクスが5年間は延命できたと思う。

当時、家電事業がどんどん台湾や東南アジアに移って、何か新しい、日本でしかできない事業を興す必要があった。ゲーム機という選択肢は当時としては正解だったんじゃないかな。

沼: まさに企画の本懐ですね。

本日はお忙しいなか、貴重なお話をありがとうございました。


 

まとめ

貴重なお話を伺い、こうしてまとめを書きながら感謝の念を改めて思います。

K氏にはこの場を借りて改めて深く御礼申し上げます。

K氏が担当されたPC88シリーズの話題のあまりの興味深さに思わず話がそれつつも、PCエンジンの熱い記憶をお伺いすることができました。インタビューの記事をまとめることは初めての経験でしたが、取り組んでみて本当に良かったと思います。

 

これからも多くの皆様により様々な方法でゲーム保存が進むことを願っています。

記事をご覧いただきありがとうございました。

 

ゲーム保存協会 沼

写真 ブリエール・エディ