ぱのらま島

特別講演「伝説のゲームクリエイターに聞く」第2弾を終えて

2017年7月22日にマイステイズ御茶ノ水コンファレンスセンターにてゲーム保存協会主催による講演イベントを開催しました。
毎年7月に開催しておりますイベントですが、活動開始5周年となった昨年は日高徹さんをお迎えして講演を開催し、大変好評いただきました。
そこで今年もゲストを迎えての講演を企画させていただきました。メンバーやサポーターの方々から広がったコネクションによって、今回は3人ものゲストをお迎えすることが出来ました。
 

ザナドゥ

ザナドゥ(シャープX1版)

「天才プログラマー」「スタープログラマー」の名をほしいままにした元日本ファルコムの木屋善夫さん、同じく元日本ファルコムで数々の名作グラフィックを手がけて来られた山根ともおさん、そしてお二人をよくご存知のログイン元編集長 新井創士さん(ほえほえ新井さん)という3名の豪華ゲストの方々です。
 
当日は午前に正会員のみによる総会を開催し、午後よりイベントを開催しました。講演に先立って13時より「ファルコム黎明期―初期のゲームソフトを振り返る―」展を行いました。資料展示室にて協会メンバーが所蔵している日本ファルコム作品の貴重なバッケージを説明とあわせて展示させていただきました。初作ギャラクティックウォーズ1は非情にレアな初期版の紙パッケージ展示もあり、資料価値はかなり高い展示であったと自負しております。
また展示室にはPC-8801を2台をセッティングし、木屋さんの処女作ギャラクティックウォーズ1と2作目のぱのらま島をプレイできるように用意させていただき、多くの方に楽しんで頂くことができました。
講演は展示会場と同フロアーにあります会議室を利用し、100名分のお席を用意させていただきましたが、事前の予約で満席となる盛況ぶりでした。
 

バードランド&スーパー四人麻雀

黎明期のゲームソフト

14時からNPOの2016年度年次報告を正会員の日下よりプレゼンテーションさせていただきました。レトロPCの修理・メンテナンス資料をまとめるというプロジェクトの説明を行った際に「修理が必要なレトロPCを持っていますか?」という質問を来場者へさせていただいたところ7割近くの方が挙手されておられましたことは、NPOとしてのプロジェクトを進める必要性を強く感じました。
年次報告を終えて、続けて3名のゲストにご登壇いただき、ゲーム保存協会特別講演「伝説のゲームクリエイターに聞く」第2弾と題しまして、木屋さん、山根さんが日本ファルコムに在籍しておられた当時のお話を中心にご講演いただきました。
はじめに木屋さんの歴史を振り返る形でお話をお伺いさせていただきました。
PCでプログラミングを始める前のころのお話から、当時の日本ファルコムの環境や開発環境などお答え頂きました。講演で印象が強かったお言葉は「アセンブラが一番簡単な言語でしょ?」でした。やはり天才プログラマーです。
山根さんにも同じく日本ファルコム入社以前の活動からお伺いし、日本ファルコムでのグラフィック開発環境やチーム毎のカラーの違いなどについて興味深いお話を頂きました。「下絵などはなく、いきなりドットを打っていた」という作風で様々なキャラクターを作成されていたことに驚きました。
お二人にお話いただく中、新井さんからは雑誌のランキングに関するお話や他紙との関係、日本ファルコムの取材に関してなど、当時の雑誌編集を行っていた方でしかわからないようなエピソードを教えて頂きました。特に「ファルコムは取材の対応も良く、発売延期がないメーカーだった」というお話は日本ファルコムの姿勢を伺えるお言葉でした。
 
ギャラクティックウォーズ1 日本ファルコム展示会
 
一時間ほどの講演の後、小休憩を挟み、続いて木屋さんと山根さんが作成された個別のゲームソフトについてのお話をお伺いしました。
ギャラクティックウォーズ1から始めさせて頂き、ぱのらま島、ドラゴンスレイヤー、ザナドゥ、ソーサリアン、ロードモナーク、風の伝説ザナドゥなどの木屋さんの作品だけではなく、太陽の神殿、イース、スタートレーダーといった山根さんがグラフィックや原案に携わった作品についても、制作にまつわる思い出や当時の苦労、雑誌での評価などについてもお話いただきました。
一部は黒歴史となっているような部分、80年代であったことによる緩さなどのお話もお伺いできました。自分としては、もうすこし突っ込んだ内容についてもお聞きしたかったのですが、お二人の作品が膨大なために時間的に割愛せざるを得ないことが多く、消化不良ぎみでした。
司会進行の不手際で予定公演時間をオーバーしてしまいましたこと、最後の方は急いで進行してしまったことを当日ご参加いただいた方々にお詫びします。
最後に「お二人にとってのゲーム制作とは?」とお伺いしたところ、山根さんからは「楽しんでくれる人のためにやっていること」。そして木屋さんからは「趣味」というお答えでした。
 

コンファレンスルーム

秋葉原近辺のコンファレンスルーム

講演終了後は会場を移して、サポーターの方々とカクテルパーティで二次会を行いました。
こちらの席でも講演ではお話いただけなかったような話題も飛び出し、新井さんからは「当時の雑誌編集者を集めて話をすることなんかも面白いかも」というような、今後のイベントへ繋がるようなお話もいただけました。
こちらで1時間半ほど歓談の後、NPO正会員を中心としたメンバーで居酒屋にて打ち上げを行い、解散となりました。
非常に充実したイベントで、司会ながらに楽しむことが出来た1日でした。
今回のイベントへご来場、参加くださった多くの方々へ感謝いたします。
ゲーム保存協会はゲーム保存活動や研究のみならず、講演などを通じてゲームの歴史を掘り起こし、伝えていく活動も精力的に開催させていただきたいと考えております。こうした取り組みはサポーターの皆さまからのご支援により実現するものです。ゲーム保存協会の活動にご支援ご協力いただいている皆さまには、協会員一同、深く感謝いたします。そして、これからもこうした取り組みを継続できるよう、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
 

カクテルパーティ

カクテルパーティ

事前に頂いた質問は可能な限り講演中にお伺いしましたが、いくつか漏れがありました。後日、ご回答をいただきましたので、質問と回答を記載させていただきます。
 

木屋さん

木屋さんへの質問

■なぜX1用テープ版ザナドゥを販売することになったのでしょうか?テープ版開発時に苦労したことはありますか?
【答え】
ハードウェアへのアクセス部分(当時BIOSと呼んでいました)が完全に分離されていましたのでそれを活かすことにより比較的簡単に対応できたので挑戦してみました。
実際、数週間で動かすことができたのですが、やはりテープは遅いwで、その調整に結構手間取ったと思います。
 
■家庭用ゲーム機での開発で、 パソコン向けとは違ったご苦労などのエピソードはございますか。(特に「ドラゴンスレイヤー」のスーパーカセットビジョン版・ ゲームボーイ版に興味がありますが、 これらに直接関わられていないのであれば申し訳ありません)
【答え】
ドラゴンスレイヤーのSCVもGBも関わっておりません。
PC用の開発もゲーム専用機も当時はICEなど高価な機械を使用しておりましたので特に違いは感じませんでした。
ただ、生産ロットの単位が大きいのでバグを仕込んでしまうと損害が大きく、そのへんは慎重にならざるを得ませんでした。
 
■月刊BEEPに「ぱのらま島では技術が追い付かず、 やりたいことがほとんどできなかった」 とインタビューに答えておられましたが、実際にプログラム技術が追い付けば、 どんなアイデアを盛り込んだゲームを完成させたかったんでしょうか?
【答え】
覚えてないです。
 
■当時のクリエイティブの根源と、今のゲームクリエイティブにアドバイスしたい事があればぜひお聞きしたいです。
【答え】
そんな偉そうなものはないです。
ただ、仕事としてとか、知名度を上げたいとか、稼ぎたいとかではなく
自分が作りたいものを作っていただけですので…
 

山根さん

山根さんへの質問

■当時日本ファルコムで3チームでの開発に携わっておられますが、チームの制作環境の違いや戸惑ったこと、印象に残っているエピソードなどありましたら教えていただけますと幸いです。
【答え】
ファルコムに入って初めて組んだのが木屋さんになりますが、第一印象は『おっかない人』でした。
他人を拒絶してるヤンキーのイメージが近いですね。
当初は会話は必要最小限に限られ、私的な話はそれ程していなかったと思います。
トミオービルに移った頃は結構フランクになっていたようにも思いますが、私的には最後までおっかない人の印象は無くなりませんでした。
木屋さんとのエピソードで語れるようなもの(?)は、遅刻貯金箱、倉庫冷房攻め、グラディウス暴行事件以外ではすぐ思いつくものはありません。
また、これは最近になって再会した音楽の阿部さんから聞いた話ですが、「とにかく山根さんの木屋さんからの扱いが見るに堪えないほど酷く」て、私の事を30年たっても思い出せたそうです。
たしか木屋さんの机で勝手にファミコンかなんかを遊んでいたら物凄い突っ込みを食らったとか、そんな状況だったかと思いますが。
 
木屋さんに押さえつけられて自由な製作が出来なかった(と当時は考えた)私は、新たに入社してきた橋本さんと組めば自由に作れると思って、ロマンシアの後に橋本さんとイースを作る事になる訳です。
橋本さんと初めて一緒に仕事をしたのは太陽の神殿になりますが、これはアステカの二作目として基本的にオリジナルとは捉えてませんでしたから、(当時の私は)自由に作っていたとは考えなかったのですね。
橋本さんはスタッフの言う事を良く聞いてくれ、いろいろと盛り込もうとしてくれました。故にスケジュール的には問題となる事もあったりしましたが。
絵のデータやメモリ領域もデザイナーの要望をなるべく叶えるべく試行錯誤してくれました事は、当時からものすごく感謝していました。
橋本さんはご自宅にスタッフを招いてゲームで遊ぶやら、ビデオを楽しむやら、とてもフレンドリーなお付き合いをさせてくれました。
カトービルの頃(Ys開発中か?)、MSX2のコナミの新作が出る度に会社に2人で居残って徹夜してエンディングまでPLAYしたものです。んな事してるからYsが1パッケージに入らなくなってしまった気もしますが。
 
富さんはゼネラルプロダクツ上がりという事もあって、私にとっては3人の中で最も考えを伝え易かった人でした。
ですが、解かっていた上でそれをストレートにネタにする事を憚らない大阪芸人でもありましたので、面倒くせぇと感じる事も多々あったりもしました。
お互い結婚していなかった事もあって、カトービルの近くにある居酒屋一休(今も未だある)でよくお酒を一緒して愚痴を言い合っていたりしましたね。
当時モデムが一般人でも入手できる程度に普及し始めていて、1200ボーレートだったかその程度のモデムを使って、都内のBBSを介してグラフィックデータを送受信してみたりとかもしました。
物凄い長い時間「ピ-ガ-」して、NTTにお金を払ってまで、しょぼい白黒のリボンの絵なんかを受け取ったりしてみたり。
純粋なグラフィックの転送は当時のハードスペックでは無理があると解ってましたけど、試してみたい気持ちが抑えきれなかったりしたもので。
 
開発環境の違いで戸惑う事はほぼ無かったです。
木屋さんのツールは私にとってはデファクトスタンダードみたいなものでしたし、他のチームでも要望を出せばそれなりに応えてくれましたから。
ですが、X1ザナドゥテープ版のPCG、MSX2イース1のタイトルグラフィックは対応するツールを用意する時間も(おそらく予算も)なかったので、メーカーが本体にオマケで付けるエディターを使う事になって閉口しました。
特にシャープのPCGエディターは、マウス環境に慣れ切って堕落していた事もあってテンキー操作等に暴れたくなりました。
 

新井さん

新井さんへの質問

■ザナドゥの隠しネームなど、解析しないと分からないような隠しフィーチャーはファルコムさんやメーカーから情報提供があったのでしょうか、それともユーザーやスタッフの解析だけだったのでしょうか?
【答え】
ザナドゥの隠しネームですが、編集部で解析はしていません。読者からの投稿にあったかもしれませんが、掲載した記憶はありません(記憶がないだけで、掲載しているかもしれませんが。)
日本ファルコムさんからは、いくつかの隠しネームを提供いただきました。画面写真を撮るためにパラメータMAXの隠しネームを使った記憶はありますが、隠しネームの一覧を掲載した覚えはないです。
アイテムショップなどの隠しフィーチャーはファルコムから聞いた情報ではないです。新井の部下がザナドゥをプレイして、たまたま見つけているとか、読者からの投稿を検証していたことはあったかもしれません。
 
ゲーム保存協会 副理事長 福田

Falcom Donation

ファルコム黄金期の歴史的資料を寄贈いただきました

日本マイコンブーム時代から現在まで、良質なゲームを作り続ける老舗メーカーの日本ファルコム株式会社様。このたび、80年代のPCゲーム黄金期にファルコム社内で活躍したというユーザーサポート用フロッピーディスクのデットストック一式を寄贈いただきました。
 

受け取った宝箱を開ける

丁寧な梱包を掘り出す

当協会に今回寄贈されたディスクは、今年発売から30周年を迎えるイースをはじめとしたフロッピー計262枚。これらのディスクは、ゲームを買ったユーザーが初期不良やバグなどの問題でゲームを通常通りに遊べなかった際、交換に配られたものです。つまりどのタイトルも全ての問題を修正した最終版データが記録されています。また、交換用の新品ですから、全てユーザーによるデータのセーブがない書き込みなしの状態です。
 

交換用の初期のイースのディスクたち

貴重な資料で緊張感が高まる

日本ファルコム株式会社様といえば、魅力的なゲームを作っているだけでなく、そうした社内の歴史も大切にしているというイメージがありますが、今回寄贈いただいたディスクも、社内できちんと保管されていたことが伝わってくる大変良好な状態です。日本のゲーム史を盛り上げてきたファルコムの貴重な歴史資料として、262枚のディスクたちは今後、ゲーム保存協会のアーカイブ室の中で長期保存されます。
 

円盤の表面のカビ状態をチェック

5.25インチ専用の保存容器

当協会のアーカイブ室は温度と湿度を365日管理し、日光や磁気など資料を痛める危険性のあるものを排除した専門ルームです。資料の劣化を抑えるために株式会社資料保存器材様と開発したフロッピーディスク専用保存容器の中に資料を移し、次世代に伝えて行けるよう現物を保管します。さらに、劣化によるデータの完全消失を防ぐため、専用機器を使いフロッピーの中身をデジタル化。2段階の保存作業で資料の消滅を防ぎます。
 

一枚一枚をQRコードでDBに登録する

媒体専用アーカイブ室の様子

今回の寄贈は、私たちにとってとても意味のあることです。ゲームを作る側である日本ファルコム株式会社様からの当協会の活動に対する信頼にしっかり答えていけるよう、これからも1日でも長く、そして1つでも多くの歴史資料を保存していきたいと思います。
 
アーカイブ室は現在、一般公開に向けての準備中です。ゲームの歴史を学ぶ研究者や、次世代のクリエイターのために活きたアーカイブを目指し全力で活動していますが、まだまだ準備にかかる人や物資が足りない状況です。1万点以上の80~90年代PCゲームソフトを保管するアーカイブ室、一般公開を実現するには皆さんからのご支援ご協力が必要です。ぜひ活動にご参加ください。
 
サポーター登録へ
 
ゲーム保存協会 ルドン
 
撮影 ニコラ・ダティッシュ(Nicolas DATICHE

Demons Ring Gamepres

マイコンという魔力に魂を引かれた中学生

ご挨拶

ゲーム保存協会の肥田と申します。

私が記事に書くにあたり、何をテーマに書こうかと考えました。私はコレクターではないのでソフトはほとんど持っていません。
さらにハードの知識は皆無ですし、プログラムの知識もほとんどありません。しかしゲームは後世に残していきたい…とムシのいい事を考えており、ゲーム保存協会に所属しています。

では、私に何が出来るのか…色々と考えてみました。
辿り着いたのは当時の記憶、経験です(この記事をお読みになっている方々から、「経験ならば俺にもあるよ!」と突っ込みの声が聞こえてきました…が無視します(笑))。

問題は私個人の経験を「保存」する意味があるのか?という点ですが、それは置いておいて勝手に話を進めますと(^^;、私はマイコンが登場してからずっとこの世界に没頭してきました。
特にマイコン、パソコンのゲームは中学生の頃から遊んでいました。中学1年生のときにPC-1211というシャープのポケットコンピュータを購入したのが最初でした。
その後、私が都立高校に合格したときに、親に頼み込んでPC8801mkIIを購入してもらいました。当時モニター込で30万円近くです。
今考えると、「私の親はそこそこお金があったんだな」と感心し、感謝しています…。
しかしその親の恩をアダで返すように、その後の高校3年間は、大学受験の勉強もせずにPC8801シリーズのゲームに没頭していました。典型的な親不孝者のパターンです。

当時、お小遣いが少ない都内の学生が、どのようにマイコン、パソコンのゲームを楽しんでいたか?

私の経験談は、当時のパソコンゲーマーの実態の保存(というのはかなり大袈裟ですが)になるのでは…と勝手に考えました。
理事長のルドン・ジョゼフの冷ややかな視線を感じつつも、記録していきたいと思います。


思い起こせば…

さて、いきなり難しい話をするのも何ですので、まずは誰でもが知っているゲームの話をしましょう。
日本ファルコムから1984年に発売された「デーモンズリング」です。
日本国民の7割が知っていると総務省統計局から発表があったように思います…が記憶違いかもしれません。

デーモンズリングのタイトル画面。炎がメラメラとアニメーションする。

デーモンズリングのタイトル画面。炎がメラメラとアニメーションする。

 

 

私は1984年の3月にPC8801mkIIを購入しました(中学3年生のときで、高校に合格した後すぐに親にせがみました)。

PC8801mkII自体を購入するときも、色々とアクシデントがあったのですが、それは別の機会があれば書くとして、1984年の初頭、秋葉原のマイコンショップの店頭では「デーモンズリング」が至る所でデモンストレーションされていました。
とあるマイコンショップでは、「デーモンズリング」の横に正式なポップか手書きかは忘れましたが、

「驚異の瞬間画面表示!」という文字がデカく書かれていた記憶があります。

「驚異の画面瞬間表示!」というのが何を言っているのか分からない方が(国民の3割は)いらっしゃると思うので、念のため説明します。

当時のマイコンは、描画はライン(線)とペイント(塗りつぶし)で行われていました。
分かりやすく説明すると、例えば「バナナ」を描くときに、まず「バナナ」の輪郭を「線」で書きます。その後、輪郭の中を黄色で「塗りつぶし」ます。
描画のスピードはプログラムによってまちまちですが、「バナナ」の例で考えると、輪郭を描くのに5秒、黄色く塗るのに3秒、そんな感じです。
マイコンが必死に「バナナ」を描画しているのを私は眺めているわけです。「バナナ」ならばまだ良いですが、複雑な絵、例えば「自動車」や「城」を描こうとすると1分や2分はザラに待たされます。
マイコン机の前に、コーヒーとケーキを用意しておくとベターな時代ですね。
現在のスマホユーザーからは、「その激遅な描画と待ち時間は何?バカじゃなの?!」という声があがりそうです。

しかし当時は、必死で絵を描いているマイコンに対して、一つ一つ丁寧に描かれる輪郭に愛着を感じ、ペイントされる独特の色合いに魅了され、どのような画像が完成するか想像をかき立てられながら、暖かい目で見守っていたのです。
決して「何をチンタラ描いているんだ!」と不届きなことを心の中で叫んだことは一度たりともありません……(おそらく、ないと記憶しています…)。
(よく考えると私も当時は相当に心の広い青年でした。もしいま、同じようなライン&ペイントのスマホゲームがあったら即アンインストールします)。

「驚異の瞬間画面表示!」に話を戻します。
秋葉原のショップでデモされていた「デーモンズリング」は、店頭デモ用のものだったと記憶しています。高速で描画される黒色/水色の2色で表現された不気味迷路シーン、メラメラと炎がアニメーションするオープニング、魔王、彫刻、ワニ男…次々とダークファンタジーな世界が表示され、秋葉原のマイコンショップを通りかかる人たちは、一瞬歩を止めてしまうほどでした。

デーモンズリングのデモ画面に次々に表示される世界。現在では珍しくない絵だが、当時はまだダークファンタジーの世界観が浸透しておらず、禍々しいオーラを放っていた。

デーモンズリングのデモ画面に次々に表示される世界。現在では珍しくない絵だが、当時はまだダークファンタジーの世界観が浸透しておらず、禍々しいオーラを放っていた。

 

 

かくいう私もその中の1人で、「デーモンズリング」という重力に魂を奪われました。
「魔王」の画像が表示されたかと思うと、それが消えて真っ暗になり、3秒ほどすると今度は「ガイコツ」の絵が瞬く間に表示されます。
純情な中学生の私は心の中で呟きました…。
(「凄い、一瞬で絵が表示されるなんて! 今までチマチマと描いていた絵はなんだったんだろう…でもこんなに速く表示されたら、ゆっくりとコーヒーとケーキを食べる時間がないじゃないか…」)。

当時まだ珍しかった「アドベンチャーゲーム」という響き、「瞬間画面表示」の技術、オカルトチックな美しい「グラフィック」が3重奏をかなでます。
特に「ワニ男」の不気味さは、まだ中学3年生の純情だった私(何回も言うとウソっぽくなるので、これで最後にしておきます)の脳裏にトラウマのようにこびり付き、夜な夜なトイレに行くのが怖くなりました。

当時一番印象に残ったワニ男の場面。 いま部屋にコイツが入ってきたら、どうしようかと思います。

当時一番印象に残ったワニ男の場面。
いま部屋にコイツが入ってきたら、どうしようかと思います。

 

 

雑誌の広告を毎日眺め、秋葉原のショップでデモ画面を見るたびに私の心は、「デーモンズリングをやりたい」という衝動に駆られました。
私はなんとか8,700円という高額なソフトを購入する算段をつけなくてはならなくなりました。
もちろん中学3年生の私には、8,700円の高額なお小遣いはありません。しかもPC8801mkIIを購入したときに、親に「高校では勉強をがんばるから」と約束をして「ドアドア」(3,800円)や「鍵穴殺人事件(8,000円くらいでした)」を購入してもらった後でした。
とはいえ、PC8801mkIIは「デーモンズリング」がなければタダの箱という極論にまで精神が達しておりましたので、ここはまた親を頼るしかありません。
「オヤ セットクスル」というコマンドがあれば入力したのですが、どのみち「デキマセン」という回答が返ってきそうです。
色々と考えた末、「もっと勉強をがんばるから」という単純な約束をしたところ、意外とあっさりと「デーモンズリング」の代金8,700円を出してもらえることになりました(いま考えると、つくづくロクでもない息子です)。


そしてお金を握りしめて秋葉原へ…。

「デーモンズリング」が発売された直後に、秋葉原の若松通商で購入したと記憶しています。
お店で購入しようしたときに、肝心のソフトパッケージが分からずに探した記憶があります。
広告やデモ画面は良く目にしていたのですが、パッケージは見たことがありませんでした。
もしかするとお店のデモ画面はまだ発売前の宣伝だったのかもしれません。
お店で「デーモングリング」のパッケージを手にとり、その場で間違いがないかパッケージを食い入るように見つめました。
緑色のパッケージに恐ろしい魔王が描かれています。当時西洋ファンタジーにまだ免疫がなかった私は、ここでもあまりの気味の悪さに背筋が凍りました(ありとあらゆる事に免疫力がない、初々しい青年時代でした)。とはいえ、この絵はインパクトがあったのです。

デーモンズリングのパッケージ。 絵に魂がこもっており、今にも魔王が飛び出してきそうです。

デーモンズリングのパッケージ。
絵に魂がこもっており、今にも魔王が飛び出してきそうです。

 

 

当時の日本ファルコムはパッケージデザインにウエイトを置いていたようです。
後から分かったことですが、日本ファルコム(コンピュータランド立川)は元々AppleIIのソフトを豊富に扱っていたそうです。つまり日本では軽視されていた「パッケージの重要性」を自然と認識していたのでしょう。
当時のマイコンのゲームはグラフィックが貧弱であったため、パッケージで想像力をかき立てるのは商法として非常に有効だったのです(パッケージと実際のゲーム画面があまりにかけ離れていた作品が多数ありました。ゲームをプレーして「騙された」と分かっても、当時は黙って唇を噛み締めるしかありませんでした…)。
ちなみに私の知り合いは、日本ファルコムの「ぱのらま島」のパッケージに描かれていた金髪の美女に魅了されて購入しました。もちろん、その金髪の美女がゲームに全く登場しないので、ティーカップを叩きつけていたのは言うまでもありません。


いよいよ開封、そして起動

「デーモンズリング」をようやく入手し、自宅のPC8801mkIIの前に座りました。
そして胸を躍らせながら箱を開けてマニュアルを取りだしました。
本当は帰りの山手線の中で、パッケージを開封しようかと思ったのですが、あの「魔王」の不気味な絵を隣の人に見られると思うと恥ずかしくて、できませんでした。
さて、マニュアルもなにやらオカルトチックなことが書かれています。

「冒険を始める時には、このマニュアルの裏側に描かれている魔法のシンボルを切り取るなどして、肌身離さず持っていてください」
「コピーを取ろうとした瞬間、ディスケットに封じ込められた極度の怒りと憎しみに満ちた悪霊たちが、それらを解き放った者に対して襲い掛かってくることに間違いありません」

いま読むと「そんなアホな…」「よほどコピーを取られたくなかったんだろうな」と思いますが、私は「マジで魔王をここに封印しているんじゃないの?!」とビビリました(完全に日本ファルコムの手のひらで踊らされていますね…)。

さらにマニュアルには設定が何ページにも渡って記載されています。「魔王サローン」や「息子デュムリン」や「神メントウサ」がどうのこうの…。
“賢者”や”魔王”と言われても、当時はまだ馴染みが薄く、さらに西洋オンチの私には具体的なイメージが沸かず、実はチンプンカンプンでした。
(いまでこそ剣と魔法の世界は当たり前ですが、1980年代前半に剣と魔法の世界(D&Dなど)を知っている日本人は、よほどのサブカル好きか、オカルト研究会の人だけでした(と全国オカルトNPO法人から統計が出ていた…かと思われます)。
マニュアルは全く理解不能でしたので、速くゲームをプレーしようとフロッピーディスクを取り出してドライブに丁寧に挿入します。
ガチッガチッというディスクのアクセス音が数回続いた後、秋葉原のマイコンショップでデモンストレーションされていたあの”迷路”がカタカタと動き出します。
そしてメラメラとした炎のタイトル画面。感動と至福の瞬間、「わが生涯に一片の悔いなし!」という状態でした(この満足感は、大人になってしまった私には(脳が老化している)、もう二度とないでしょう)。

ゲームを起動すると最初に表示されるアニメーションのような迷路シーン。 実はこの迷路の地図を書きながらチマチマ進むことになるとは、この時はまだ知る由もありませんでした。

ゲームを起動すると最初に表示されるアニメーションのような迷路シーン。
実はこの迷路の地図を書きながらチマチマ進むことになるとは、この時はまだ知る由もありませんでした。

 

 


クリアまでの果てしない道程

ゲームは”古びた家”の前からスタートします。すでに他のアドベンチャーゲームを経験していた私は、「ミル」「トル」「シラベル」の三種の神器コマンドはすでに把握していました。
ゲーム画面に表示される”古びた家”の前にある手紙を読んで(「テガミ トル」「テガミ ヨム」というコマンドをキーボードから直接入力する)進めていきます。
「デーモンズリング」は瞬間画面表示もさることながら、一つ一つのグラフィックが当時としてトップレベルの美しさでした。
西洋風の神秘的な絵も私にとって初体験です。当時、オカルト研究会の人しか知らなかった(と思われる)ダークファンタジーの世界観も、画面上に視覚化されているために世界に容易に入り込めます(日本ファルコムのグラフィックの勝利ですね…文字だけなら分かりません)。
移動するたびに「おおっ」と歓声をあげ、心臓がどんどん高鳴ります。
まるで自分が異世界に飛ばされたような錯覚を起こさせるのです。
自腹で購入したゲームという色眼鏡をかけているかもしれませんが、グラフィックだけでドキドキするゲームは、エロゲームを除いてはあまりなかった記憶しています…。

古びた家のシーンからゲームがスタートする。 ポストから手紙を取って読むと、冒険の始まり。

古びた家のシーンからゲームがスタートする。
ポストから手紙を取って読むと、冒険の始まり。

 

 

肝心のゲーム内容ですが、プレーして数分後、狼の群れが突然目の前に現れ、あっという間に喉ぶえを噛み切られて死亡しました。
その後も歩いていると魔王の彫刻に睨み殺されたり、断崖が崩れて死亡したり、ワニ男に集団で襲われたりと、何度殺されたか分かりません。
悪戦苦闘の日々が続きました(まさにデーモン(悪魔の難易度)との戦いでした)。最後までクリアしたのは、高校2年生のときだと思います(約2年の長丁場でした)。
クリアしたといっても、ゲームエイドという怪しいメーカーが発売していた「ヒント&お答え集」を見ながらクリアしました(解答本を購入するのは、ゲームに対して負けを認めるようで嫌だったのですが、仕方なく買いました…)。
「デーモンズリングの難易度は比較的低い」と書かれているのをインターネットで見たことがあるのですが、クリアされた方は相当に頭が良いか、勘が鋭い方なのではないかと思います。私にはノーヒントでクリアすることは到底ムリでした。

当時購入したヒント&お答え集。 500円くらいで通販していました。

当時購入したヒント&お答え集。
500円くらいで通販していました。

 

 

どうして2年間も「デーモンズリング」をクリアできなかったのか。それは時代背景と、ゲームのべらぼうな難易度です。

まず、インターネットという便利な環境はありません。「デーモンズリング」という言葉を検索したり、ツイートすると誰かが返信してくれる時代ではありません。
同じ学校の友達の情報以外、何もヒントはありませんでした。雑誌ではゲームの紹介はするものの、攻略やヒントを掲載していたものは皆無です。
数か月してからこのゲームがコピーできることを知り、高校の友達(同じ高校でPC8801を所有していた仲間)もちゃっかりプレーしていましたが、結局誰も自力でクリアできませんでした。

また、「デーモンズリング」ほど、あっさりと主人公がお亡くなりになるゲームはなかなか見当たりません(主人公デュムリンの危機回避能力はほぼゼロです…とはいえ「主人公=私」なので、私に危機回避能力が無いのですが…)。
ゲームオーバーになると、ご丁寧にデュムリンのお墓とともに「スペースキーを押すとあなたは再びDemonsRingの世界に戻ることが出来ます」と表示されます。
(私はスペースキーを何度も押しましたが、今振り返ってみると、単なる自殺志願者としか思えません)

また、先に記述した迷路が凶悪です。
物語の後半に最初のデモンストレーンで表示されていた青色と黒色の迷路が、モノクロ版になって登場します。

物語後半の凶悪な迷路。

物語後半の凶悪な迷路。

 

 

迷路の出口に「鍵」が置いてあり、「鍵」を取らないとゲームはクリアできません。つまり、迷路を脱出することがクリアの絶対条件です。

私がデーモンズリングに求めていたものは、「心躍る美しい画面が次々に展開されるデーモンズリング」でした。何が悲しくて、延々と寂れた迷路を進まなければならないのでしょう。
さらにこの迷路はハンパなく広大で、方眼紙のマスで、タテ30×ヨコ20あります。私は方眼紙に迷路の地図を書いていたのですが、いくら進めども出口らしきところがありません。
また、ずっと歩いていると疲れて死んでしまいます(主人公が虚弱すぎます…)。このときはさすがに口をあんぐり開けて、そのまま意気消沈しました。
もっと驚いたのは、最短距離で出口に直行すると「地図を書いたあなたは立派です。しかしそうは簡単にこの迷路を出ることはできません。」と表示されて出られません(迷路の中でわざわざ「キタ」「ミナミ」等のコマンドを110回以上入力する必要があります…。前向きに解釈すると、8,700円もするゲームを長く遊んでほしいという制作サイドの好意なのでしょうが、「立派だ」と褒めるくらいならば早く脱出させて欲しいです)。
私はしばらく迷路のマップを方眼紙に書いていましたが、「実はこの迷路はゲームに関係ないのでは?」と思って地図を書くのを放棄しました。この時点でクリアは不可能となりました。

迷路のマップ。これはゲームエイドというメーカーが発売していた ヒント&お答え集の一部から抜粋しました。

迷路のマップ。これはゲームエイドというメーカーが発売していた
ヒント&お答え集の一部から抜粋しました。

 


おわりに

長々と書いてきましたが、私にとって「デーモンズリング」は出会ってからクリアするまでに、色々な感情を抱かせてくれたゲームソフトでした。

・初めて画面を見た時に心が踊り…。
・購入するときは心臓が高鳴り…。
・ゲームを起動したときに、画面の美しさに感嘆の声をあげ…。
・ゲームが解けてなくて、苦悩で顔が歪みはじめ…。
・最後にヒント集を購入してクリアしたときは、ようやく「悪魔」という重力から魂が解放された安堵感が…。

そんな思い出が詰まったゲームソフトです。

それらすべてをひっくるめて「私のデーモンズリング」という記憶/記録になります。
1980年代の数年間だけ大流行したコマンド入力型アドベンチャーゲームは、私の青春マイコン時代の中で、燦然と輝く経験であったことを、記事を書きながら改めて思いました(それが良かったことなのか、考えると落ち込みそうなので考えないようにします…(^^;))。
また、当時高校生で一緒に「デーモンズリング」を解いていた仲間たちのことを思い出しました。もし旧友と会う機会があれば、ビールでも飲みながら当時の思い出を語り合いたいものです。

ゲーム保存協会 肥田